結城信一の青春


   1 二つの『百本の茨』

 

 結城信一が六十代最後の仕事としたのは『百本の茨』の完結であった。

 『百本の茨』とは、亡くなられた年、昭和五十九年の「新潮」五月号に〈序章〉にあたる「有明月」を、三ケ月後の同誌八月号に〈其二〉にあたる「暁紅」の二篇のみが発表されただけで、結城信一の死により惜しくも中断し、未完に終った自伝的連作小説の標題なのである。この未完の長篇『百本の茨』は、結城信一が命を賭し、最後の精魂を傾けた仕事であったことはいうまでもない。

 じっさい、《「新潮」五月号から断続的に小説を書きます。序章を書いただけで、へとへとになつてをります。うまく完結に漕ぎつければ三百枚は越すでせようが途中で難破、挫折する懼れもあります、そのときはそのとき、と観念してゐますが》、と誌された結城信一の書簡がある。昭和五十年いらい愛読者として親交のあった田中淑恵氏にあてた最後のもので、亡くなられる五ケ月前の四月二十二日にしたためられている。結城信一はこのときすでに、みずからの死を予感していたように思える。同時に私には、「セザンヌの山」(「アルプ」昭和四十三年十月第一二八号)や「落葉の創作」(「アルプ」昭和四十八年十月第一八八号)のなかに織りこまれている、《絵を描きながら、死にたいと願ひます》、というセザンヌの言葉が想起される。封筒の表書きは、田中淑恵氏が感じられたようにちからがなくて薄く、生気がない。不吉な印象であった。

 この未完に終った『百本の茨』については、生前発表された二篇のほかに、結城信一が遺した一枚の小さなメモがある。そこには、『百本の茨』を構成するそれぞれの作品の標題が読める。

《有明月

 暁紅

 秋色

 炎夏

 敗荷

 夢……〈玄冬〉

 落照

 交織》

 萬年筆で誌されたこのメモがいつ作られたのか定かでない。しかし、結城信一の心奥では、完結後、『百本の茨』という標題で括られるこれら八篇の作品群がある程度かたちづくられ、温められていたことはたしかであったろう。ただ、「敗荷」は鉛筆で一本線が引かれ、抹消されている。

 結城信一の不吉な言葉どおり、はじめの二篇だけの発表で《難破、挫折》してしまったことになる『百本の茨』は、結城氏六十代最後の仕事であったが、同時にそれは、小説家結城信一の最期ともなった。結城信一にとって、本当にこれから、という時機であった。執筆途上での死はやはり、哀惜の念に堪えないのであるが、いっぽうでは、《絵を描きながら、死にたいと願ひます》、そんな静かな低い声も聴こえてくる。その言葉どおりの道を一人歩いて、結城氏は逝かれた、と私は思う。

        ○

 ここで、結城信一の六十代について触れておきたい。

 昭和二十三年の「群像」十月号(新人創作特集)に「秋祭」を発表して結城信一は文壇に登場し、作家生活にはいってゆく。三十三歳のときである(以下年齢は数え年)。以後、一貫して、「群像」を発表の場としている。「群像」の創刊は昭和二十一年十月である。発表した作品数は少ないが、結城信一は紛れもない「群像」の作家であった。参考までに、各文藝誌への小説の発表作品数を一覧する。

 「群像」二十四(昭和二十三年から昭和五十七年)

 「文學界」五(昭和二十七年から昭和三十一年)

 「文藝」六(昭和五十三年から昭和五十四年)

 「新潮」九(昭和五十五年から昭和五十九年)

 「海燕」一(昭和五十九年)

 この数字を見てもあきらかなように、結城信一は寡作も寡作であった。その珠玉の作品群は、《へとへと》になりながら、全身を使っての精魂を傾けた孤独な仕事の結晶であったことは事実である。また、初期の作品の芥川賞候補いらい、文学賞にも無縁であったが、寡作をとおして《わがひとり居る》細道を歩いてきた結城信一の六十代を見ると、その内容において、まさに充実している。

 たとえば、『夜の鐘』(昭和四十六年三月?講談社)刊行後、五年ぶりの本である『萩すすき』(昭和五十一年十月?青娥書房)は第五回平林たい子文学賞の候補になり、二十八枚の短篇小説「空の細道」(「文藝」昭和五十三年五月号)が第六回川端康成賞の候補にあがる。『萩すすき』は小品文集という理由で見送られ、また「空の細道」も選考に漏れてしまう。吉行淳之介の選評「豊作」(「新潮」昭和五十四年六月号)には、《結城信一氏の「空の細道」にも、私は感服した。短篇の結構をみごとに備え、ディテールにも怕いところがある。甘いという批判があったが、昔から結城氏を知っている私としては、リリシズムは氏の出発時からの特徴で、以前は空中にただよいがちだったそのリリシズムがいまでは肉付きの面のように物自体に貼りつき、この作品ではさらに煮つまって物そのものになってきたようにおもえ、そこのところがとてもよいと考えた》、と批評されている。

 「空の細道」を含む「文藝」に発表された七篇の作品は、連作体短篇集『空の細道』(昭和五十五年二月?河出書房新社)一巻としてまとめられ、結城信一はこの作品集で新潮社の第十二回日本文学大賞を受賞する。昭和五十五年、六十五歳のときであった。『空の細道』所収の「去年のこほろぎ」(「文藝」昭和五十四年十一月号)を発表してのち、「園林のほとり」(昭和五十五年一月号)がはじめて「新潮」に掲載される。「新潮」発表の作品をまとめた『石榴抄』(昭和五十六年七月?新潮社)と『不吉な港』(昭和五十八年十月?新潮社)の二著が上梓される。こののち、自伝的連作小説『百本の茨』が「新潮」に断続掲載されるのである。

 最初の「有明月」には、昭和三十六年六月の二回もの大量吐血したことが書かれている。「たそがれ」(「婦人之友」昭和四十五年二月号)や「園林のほとり」で知らされている衝撃的な出来事をふたたび作中に織りこんでいるのにも惹かれる。つづく「暁紅」では、三年後の昭和三十九年十月に再発した胃潰瘍の五時間にも及ぶ手術体験が精細に書きこまれる。当時の「覚書」も挿入されていて、結城信一の日常生活の断片を垣間見ることができる。さらには、二十歳までのことを書いた「轉身」(「早稲田文學」昭和二十六年十一月号)の主要な部分が再度描かれてもいる。昭和三十年代の、結城信一四十代の苦難の一時期であった。

 こうしてみると、結城信一は『百本の茨』に至って、二十六歳までの自伝風な長篇小説『螢草』(昭和三十三年十二月?創文社)から六十代半ばに刊行した『石榴抄』『不吉な港』のなかで、戦中戦後の暗い青春を書きついだ以後の、病みがちで孤独な作者みずからの肖像を鏤刻すべき連作小説にとりかかったのはあきらかである。

 私は「有明月」と「暁紅」を読みかえしながら、《百本の茨》とはいったいなにか、といった思いにとらわれていた。生前発表されたこれら二篇の作品には、いまだ《百本の茨》という言葉は見出せない。むろん《百本の茨》とは、未完に終った結城信一最後の自伝的連作小説の標題なのであるが、私には、この言葉に結城氏の生涯にわたる魂の傷みがこめられているように感じられる。三十九年間に及ぶ結城信一の文学的営為を考える上で、《百本の茨》は、まことに象徴的な言葉のように思えてならない。

        ○

 私が《百本の茨》とはなにか、とひとり漠然と思いをめぐらせていたとき、幸運にも結城信一夫人松橋宗子氏にお目にかかることができた。

 平成元年十月十日、保昌正夫氏とともに松橋宗子氏を訪問したおり、夫人所蔵の貴重な資料を見せていただいた。そのなかに前述したメモがあり、じつはほかに、『百本の茨』も篋底に秘されて在った。

 『百本の茨』は、結城信一愛用の手漉の土佐半紙を半分に割いて細筆(方寸千言)で墨書したものを一綴にし、布目紙のがんだれ表紙で装本されている。全二百十八丁。四百字原稿用紙に換算すると、二百枚を優に超える。書込みや訂正はほとんどなく、浄書された稿本であろう。筆墨された文字の字配りや掠れなどを見つめていると、結城信一の息づかいが直に伝わってくるようで、活字とはまたちがった興奮を覚える。巻頭には少女へ捧げる献辞とともに、三丁にわたる詳細な目次も綴込まれている。背と平には「百本の茨」と題字が墨書された、簡素で清潔な、結城信一手造りの一巻である。堅固な製本からは、『百本の茨』へ寄せる結城信一の思いの深さがうかがわれる。生前、おそらく焼却するに忍びなかった記念の稿本であることが想像できる。

 私は『百本の茨』を読んで感銘を受け、驚愕した。墨書された一行一行が、まさに瞠目に値する。読みすすめるうちに、私の心は、おののいてきた。なかには、「秘稿」と書かれた短册型の紙片が挟みこまれている。『百本の茨』は、結城文学の基調音を奏でる《私の少女》とのあらましを告白したものだった。そこに書かれてあることの大半は、しかし、すでになんらかのかたちで、活字になって発表された作品中に織りこまれているものばかりであった。結城信一の作品のなかで名前をかえ、かたちをかえて、繰返し登場してきた《私の少女》についての実際のあらましは、この『百本の茨』一巻に克明に書き誌され、みごとに収束されている。結城信一にとって、まさに「秘稿」である所以であろう。私はこのとき、《「あの作品は、発表する気で書いたのじゃなかった。わたしが死んで、机のヒキダシを開けると、あの原稿が出てくる。そんなつもりだった」》(吉行淳之介「日暮里本行寺」新潮?昭和六十年一月号)、という結城信一の言葉を思い起こした。これは、「空の細道」について語られた言葉であるが、そのまま『百本の茨』にもあてはまる。

 結城信一には、最後の仕事となった未完の長篇とそれ以前に書かれた「秘稿」との、二つの『百本の茨』が在ったのである。私の胸奥には、この二つの『百本の茨』についてのさまざまな思いが浮ぶ。

 『百本の茨』は事実のみを誌した告白の書という体裁をとっているが、私にはひとつの作品、私小説作品とも読みとれる。また、《私の少女》とのあらましを告白した一巻と最後の未完に終った自伝的連作小説の標題がおなじであることにおいても、興味ふかいものがある。『百本の茨』の巻末には《昭和三十九年二月二十九日脱稿。/(辰年の潤年の如月末日)》とあり、それは「暁紅」に描かれた二十年前の、胃潰瘍再発の年とも重なる。自伝的連作小説にはもちろん、結城文学の母胎となった《私の少女》とのことも書きこまれる筈であったと思う。

 二つの『百本の茨』を読みかえして感じるのは、やはり、結城信一自身の死の予感と相通ずるものが多い。

        ○

 今、『百本の茨』を読むことのできた私の心は、おののいて、歇まない。いっぽう、僥倖をも感じている。松橋宗子氏に会うことをお勧めくださった保昌正夫氏と、松橋氏のありがたい御親切に、ここであらためて、篤く御禮申上げる次第である。

 私のこの小文は、結城信一が遺した『百本の茨』を読んだ印象をもとに、一篇の鎭魂曲を綴ることにある。

 結城信一の「私の手帖」(「近代文學」昭和三十五年三月号)のなかの言葉を援用させていただくなら、つまりは、こうである。

 《……私はこれまで読んだ多くの作品から、その作者たちが愛したもの、一つの器物や一つの風景にしても、その作者たちが心をこめて愛した愛しかたの方に心をひかれたのである。人が死んでゆくとき、愛の思ひのほかに何が残るか、と私は思つてゐた。……》

 

   2 松琴堂での邂逅

 

 結城信一がはじめて少女に会ったのは、千葉市登戸町の、海辺の小さな住居であった。その住居を「松琴堂」と名づけているのは、「落葉亭」とならんで、頗る結城信一らしい。風雅な名称である。

 昭和十一年八月下旬のことである。結城信一が第二早稲田高等学院から英文科にすすんだ年で、二年前の昭和九年夏から、学業のかたわら、日本橋箱崎町の父親の店の仕事に従い、過労状態がつづく毎日のなかで健康を大きく損なってしまう。胸部疾患により、医者の勧めにしたがって、昭和十一年七月から登戸海岸の海辺の住居に一人転地療養していた。

 結城信一、二十一歳、少女十三歳の夏であった。

 昭和十一年は二?二六事件があった年でもある。

 少女とのことを書いた「螢草」(「群像」昭和二十六年四月号)の冒頭には、千葉へむかう京成電車のなかで隣合せた、編物をしている一人の少女の姿が描かれている。《私の少女》との出会いが暗示されていて印象ふかい。「松琴堂」での少女との邂逅は、結城信一にとって、まったく思いがけないものであったが、心の奥底では少女の出現を待ちのぞんでいた。

 少女と出会う前年の昭和十年、二十歳の結城信一は二册の作品集を編んでいる。二年間にわたる第二早稲田高等学院での成果である。リボンで綴じられたガリ版刷の第一集『時計台』(九月十六日)には、「病める少女におくる詩」が掲げられている。第二集『雰囲気』(十一月一日)のなかには習作「花瓶」が収録されている。後年の「それいゆ」や「新女苑」に発表された少女小説を髣髴させる、作中の少女みちこを描く捉え方に、結城信一の温かな視線が感じられて、私は幾つかの作品の断片を思い浮べた。

 結城信一が少女の出現を待ちのぞむ気持は、「螢草」の一節にも明確に認められる。

 《……私は明らかに、自分の体質と性癖と趣味からいつて、更に療養生活といふ特殊な境遇から、大人ではない一人の純な少女を欲してゐたのにちがひない。自分の健康や、淡泊な欲望から言つても、強烈な恋愛の火の中に身を焦がすほどの、機会も勿論あり得なかつたが、何よりもそれほどの勇気の一片をさへ私は持合はせてはゐなかつた。二十一歳の私は、チェーホフの小説の中にある、「私は愛してゐる、併しそれは私が男で、この人が女だからではありません、この人と一緒になると、私はいつも、この人は何か第三の性に属し、私は第四のそれに属するやうな気がするのです」と言つたふうの愛情の中で側にゐてほしい、一人の純な少女を欲してゐたのにちがひない。……》

 このチェーホフの言葉は、次のようにいいかえられるかも知れない。《その人の傍にゐるだけで自分といふものが善良になるやうに思ふ、そういふ人がこの世の中に本当にゐるものだ》、と。「螢草」の作中に引用されている、アンデルセンがその自伝のなかで述べている言葉である。

 チェーホフとアンデルセンの二つの言葉を念頭に置きながら、年齢や性別を超えて、純粋に愛だけを考えたとき、私の胸奥には、「石榴抄––小説秋艸道人断章」(「新潮」昭和五十六年三月号)に描かれた會津八一と高橋きい子の姿が浮ぶ。この二人の在るべくしてある姿を、結城信一は《結縁》と称んだ。この言葉には、作者結城信一の四十五年前に邂逅した《私の少女》への変らぬ愛が必ずや塗りこめられていた筈である。『石榴抄』所収の「炎のほとり」(「新潮」昭和五十五年七月号)と「炎のなごり」(「新潮」昭和五十五年十月号)の若き歴史学者毛利が、この二人の愛のかたちを理想として憧れたとおなじように。結城信一もまた憧憬し、理想としたのではなかったか。

        ○

 結城信一は「松琴堂」で出会った少女が好きになり、《私の初恋だつた》、と小品「西瓜」(『味覚の記録』昭和四十二年八月?文理書院ドリーム出版)の末尾に誌している。少女と知合った経緯や登戸海岸で遊んだことなどは、叮嚀に、深い懐旧の思いをこめながら、「螢草」のなかに書きこんでいる。

 少女と楽しく遊んだ夏の一週間は、瞬く間のうちに過ぎ去り、夏休みが終った。ほんとうに束の間の一週間であった。少女は東京へ帰ってしまったが、一週間もたたぬうちに、一人で療養の日々を送っていた結城信一のもとに思いがけず少女からの葉書が届く。そこには「西瓜」の作中にあるように、《私に会へたことがうれしかつた》、と書かれていた。この葉書を第一号として、八年後の昭和十九年九月二十四日附の横浜から鎌倉に疎開するという内容の最後の葉書まで、結城信一は少女から五十通を超す葉書や手紙をもらっている。五十通を超す手紙類のことは、短篇小説「塵労」でも読むことができる。

 少女と遊んだ登戸海岸での日々を、結城信一は『百本の茨』のなかで、次のように告白する。

 《……私には、その一週間ほど充実した愉しかつた時は、ほかには無かつたやうだ。どんな不運な人生にも、一度は幸運な日に恵まれることがあるとすれば、私の場合には、この一週間のことであらう。……》

 登戸海岸の道路は、《かつては「下総の石なし国」といわれ、雨が降れば足が没する泥道となり、それが乾けば黄塵と化した》(鳥海宗一郎編『ふるさと想い出写真集千葉』昭和五十三年十二月?国書刊行会)とあるように、また海辺のそばで湿気が多いこともあって、結城信一の療養生活には適さなかったのかも知れない。「螢草」によれば、全快しないまま、その年の十一月はじめに結城信一は東京へ帰っている。……《では何のために、私は此の海辺の家に転地してきたのだらう。病気を直すためではないとすれば、––併しやはり、健康になりたくてはじめはやつてきたのだ。だが今では「私の少女」にめぐりあふため、そのためにのみやつてきたのだ》。

 結城信一が、《どんな不運な人生にも、一度は幸運な日に恵まれることがあるとすれば、私の場合には、この一週間のことであらう》とまで告白した少女との出会いは、此の世での、運命的な、またとあろうかと思われるような邂逅であった。

        ○

 結城信一が《私の少女》とのことを書いた「螢草」には前身作がある。「絹」と標題される中篇小説で、起稿されたのは、昭和二十年四月二十七日であった。

 随筆「海棠の花」(「風景」昭和四十七年五月号)を読むと、この年の一月から六月にかけて、結城信一は百首ほどの短歌をつくっている。それは東京大空襲下につくられた戦中歌であり、のちに四十首を収録して、『海棠の花』という《ひとに見せたことの一度もない、私のささやかな歌集》の存在をあきらかにしている。この歌集は刊本ではなく、結城信一手造りの稿本であろう。おそらく『海棠の花』には、『昭和萬葉集』巻六(昭和五十四年二月?講談社)や「偏奇館焼亡」(「文庫」昭和二十八年九月号)、「鶴の書」(「群像」昭和三十二年四月号)などに収録されている次の六首が読める筈である。

《空爆につひえし町のひろごりのひろきがままに降れる雪かな

 われ等ただことばもあらずたゝずみぬ大人がやかたも今はあらなく

 二十五年大人(うし)が侘び居もことたえてわれ等なげきに骨もほそりぬ

 偏奇館うせにしあとの若草にかなしみごころきはまりにけり

 たたかひはいつ終るらむくちびるをかみつつ今日も書をうづめぬ

 いつの日か土ほりかへし埋めたる書を背負ひてさすらひ行かむ》

 結城信一は、この歌集の書名を『海棠の花』ではなく『廃墟』『焼亡』『埋書』、あるいは『藍』としてもよいと誌している。これらの文字には、疎開することなく東京に踏みとどまって終戦を迎えた結城信一の戦争体験がこめられている。《あの恐怖と憎しみとにみちた暗い夜々が、息ぐるしくよみがへる。そして、いのち永らへた、と一瞬感ずることの出来た、翌朝の、光のまぶしさに涙を落したことも》、といった一節が見える。

 「インドネシアの空」(「群像」昭和三十三年十一月号)には、新聞記事からひろった各都市への空襲の記録とともに「絹」の執筆枚数のメモが織りこまれていて、次のように書くのである。

 《……何のために。おそらく、私自身のために。もういつ死ぬかわからなかつたし、書いたものが次の日にはもう焼けて灰になるかも知れなくても、書かうといふ気持を抑へることが出来なくなつてゐた。藁半紙に書いた草稿を、今度は何年か前にひそかに買溜めておいた原稿用紙にペンで浄書して、その浄書が終つたら一つ一つ罐にでも封じこんで土に埋めておかう。この空襲の悲惨に耐へるために……》

 戦局悪化にともない、結城信一は百首ほどの戦中歌をつくるとともに、一巻の遺稿をなさんと《私の少女》のことを小説に書きはじめた。その遺稿が「絹」であり、愛着ふかい百五十四枚の中篇小説「螢草」となって、昭和二十五年十月二十日に完成する草稿だった。戦後、「螢草」が発表されたとき、「讀賣新聞」(昭和二十六年三月十九日)の文藝時評で、だれよりも早く批評し絶賛したのは平野謙であった。のちに平野謙は、《「第三の新人」という言葉がひとしきり使われたとき、そのグループに所属するようでいて、どこかちがっていた結城信一のような作者を私はひそかに信愛した》(「新人について?」昭和三十年十月)とも書いている。

 私の手許には、昭和二十六年前後につくられたと思われる短歌「寒夜行」がある。結城氏と親交のあった平川巨人氏からいただいたもので、次のように読める。

《花やげる人の団欒を離りきて寒夜を行けば月しづかなり

 月高き寒夜の道にうつるわが影は小さく悲しみてあり

 風なぎし寒夜を行けばあふれ出づ涙は月の雫のごとし》

 結城信一の悲歌である。この墨書された三首からは、悲しい眼附と絶えず胸のなかが痛んで憂鬱そうな面持をした結城信一の姿が浮びあがる。

 ここで、思い起こす言葉がある。『百本の茨』には、《私は「螢草」が世に出たところで、死んでしまつてもよかつた》、と誌された一節があった。この一節から、私の思いは、《慶子が死んだとき、私も死ぬべきだつたのだらうか。私は慶子を愛してゐたのだし、慶子も私を愛してゐたのにちがひなかつたから。そのときなら私も死ぬことが出来たかも知れなかつた》、という「柿ノ木坂」(「群像」昭和三十年十月号)の文章に飛ぶ。結城信一のつねに死を思う憂愁は、すなわち人生のはかなさを嘆く心に通ずる。また、現世を厭離する心にも相通ずるものであろう。《私にはこの現代が肌に合わない》(「一つの回想」國文學?昭和四十年十一月号)、《もはや現代の社会からは、心から感動するものは得られなくなつてしまつた》(「二つの鎭魂曲」近代文學?昭和三十八年十月号)、といった言葉も連想される。《彼は劇場にも映画にも行かない、人とからだがすれあふことに耐へられないからだ》(「街の外」風報?昭和三十二年八月号。ほか)、というフランスの若い画家の言葉に戦慄する結城信一の姿が想起される。

 このような思いとともに、みずからの命の欠片を深くちりばめて綴られた結城信一の作品世界を、保昌正夫氏は「厭離穢土の一つの切りくち」(「早稲田文学」昭和四十六年八月号)と評言し、上田三四二氏は「死への誘惑の書」(「群像」昭和四十六年五月号)と評した。いずれもこの二つの言葉は、短篇集『夜の鐘』の書評の標題である。

 『螢草』における《肉体的に不幸な宿命を負つた一人の人間》とは、いうまでもなく結城信一自身であるが、これはまた、「交響変奏曲」(増刊「群像」昭和二十八年六月)の左腕を失った男にも見出せる。この片腕の男は、十六年後に発表された短篇小説「ボナールの庭」(「群像」昭和四十四年十月号)の佐山となって再生する。結城信一の積年の苦しみと悲しみから生れた遺書とも読める作品で、一字一句、ゆるがせにすることなく丹念に書き誌されている。「ボナールの庭」や「夜の鐘」(「群像」昭和四十五年三月号)、「落葉亭」(「群像」昭和四十五年九月号)、「山の池」(「群像」昭和四十四年三月号)、「バルトークの夜」(「風景」昭和四十四年四月号)などが収録されている『夜の鐘』一巻から、私は、「もう、いつ死んでもいい」という、結城信一の悲痛な声を聴いたのである。愛する《私の少女》を失い、戦後の鬱鬱とした絶望的な日々を発狂もせず自殺もしないで辛抱強く生きてきたのは、やはり文学への夢と情熱があったからにほかならない。

 さて、『百本の茨』のなかには、次のような一節も書きこまれている。

 《……私は開戦の年(昭和十六年)の開戦の月(十二月)の終りごろに十八枚の短篇「冬夜抄」を書き、終戦の年(昭和二十年)の終戦の月(八月)には『螢草』の前身の作を書いてゐたことになるが、これは単なる偶然といふものであらうか。……》

 というのは、この文章に見える《十八枚の短篇「冬夜抄」》は、終戦の年の秋に書いた三十枚の短篇小説「鶯」とともに、結城信一が編輯した雑誌「ロゴス」創刊号(昭和二十一年五月)に発表されている。「鶯」は結城文学の出発作であったが、「冬夜抄」は結城信一の処女作なのである。

 この二つの作品において注目すべきは、「鶯」はのちに「冬夜抄」のなかの一部分を織りこんで改稿され、短篇小説「雪のあと」(「現代文學」昭和三十三年四月第一号)になる。さらに十六年後、六十代へのあらたな文学的出発作「文化祭」(「群像」昭和四十九年十月号)となってみごとに結実する。「冬夜抄」の一部分はまた、「バルトークの夜」にも活かされている。《文学で生きてゆくのでなければ、ほかに私の生きる道はなかつた》とは、『百本の茨』のなかに見える言葉であった。

 少女への悲しい愛の渇きと死を主題とする変奏曲を繰返し鎭魂の言葉で綴ってきた結城信一は、昭和十六年暮に処女作「冬夜抄」を書いたとき、あるいは遡って昭和十一年八月下旬に「松琴堂」で少女と邂逅したそのときすでに、将来紡がねばならぬ鎭魂曲の企図の中央に立っていたのである。

        ○

 私の手許には戦前の書簡図絵「海の千葉市」がある。折込まれた横長の通信欄には、猪之鼻公園の高台より千葉市内、内海のかなた富士山の銀嶺を眺望した絵が描かれている。また、『ふるさと想い出写真集千葉』という本もある。昭和二十三年ごろの登戸海岸から出洲海岸を展望した写真、昭和十六年ごろの千葉海岸の海の家、稲毛海岸の潮干狩風景などの貴重な写真が掲載されていて、私には興味が尽きない。

 結城信一のガリ版刷の作品集『時計台』には、「松琴堂」で過した日々の見聞を書いた「九月になる」がある。当時の登戸海岸での思い出を綴った文章には、「西瓜」や「西瓜幻想」(「味の味」昭和四十三年六月号)、「蟹舟」(「食食食」昭和五十八年一月第三三号)などがある。

 父のことを書いた「夜の橋」(「群像」昭和五十一年六月号)には、「松琴堂」から望んだ当時の登戸海岸が描かれている。

 《……家の縁先からは、遠浅の海が涯しのないほどにひろびろと見え、大空が蒼く晴れてゐれば、海の色はそれに応じて、美しい蒼の耀きを放つた。左手は房総半島だが、右手の遠くに霞んで見えるのは三浦半島だらう。大潮のときには、二十坪ほどの庭の、板塀の近くにまで波が寄つてくる。そこで海が崩れては退いてゆく。また盛返しては、板塀にゆつくり迫つてくる。……》

 しかし、遠浅の海は戦後の昭和三十年代はじめに埋立てられ、登戸海岸の道路は国道十四号線が走り、京葉臨海工業地帯になっている。ちかくには第三セクターの幕張メッセがあり、いまや千葉海岸の一帯は、二十一世紀へ向けての新国際都市を築く「幕張新都心計画」が進行中なのである。五十五年前の渚はとうのむかしに跡形もなく消え去っていた。

 遠浅の海が埋立てられ、「松琴堂」が海辺の住居としての意味をもたなくなったとき、結城信一は「夜の橋」のなかで、愛惜をこめて次のように述懐する。

 《……私は自分の内面の奥で、自分にひとつのいのちを吹込んでくれた世界を、消えることのないアルバムとして、永久保存するしかあるまい。……〔略〕……滅びてゆくたからの、そのもとの姿を支へつづけるものは、ひとのこころだけだらう。……》

 思えば、結城信一がこのように心に刻みこんだのは、偶然にも、《自分にひとつのいのちを吹込んでくれた世界》を綴った「螢草」が「群像」に発表された昭和二十六年四月のことだった。そのとき結城信一は、「螢草」の家である「松琴堂」と登戸海岸の風景を記念とすべく、二枚の写真に収めている。このことからも、その思いが如何ほどのものであったかがうかがえる。《私の少女》と出会い、八月下旬の束の間の一週間を少女たちと楽しく遊んだ登戸海岸の広い渚や「松琴堂」は、結城信一の眼の前から、かたちあるものとして存在することなく、永久に失われてしまったのである。

 だが、このとき逆に、結城信一の心のなかには、涯しない静かな青い海のように《そのもとの姿》が拡がったにちがいない。「松琴堂」も《私の少女》も、もはや、結城信一の心のなかにしか存在しないのだから。いわば、《私の少女》は、一枚の肖像画にも似た、決して成長することのない永遠の少女の相貌を呈しながら、結城信一の胸奥に秘されて存在し、大切に所有されているのであるから。その肖像画とは、「薔薇の中」(「文學界」昭和二十七年十一月号)の《薔薇の少女》であり、「千鳥」(「美術手帖」昭和三十三年六月号)の《亜麻いろの髪の少女》でもあり、あるいはまた、「山の池」の《レモンの娘》なのである。

 

   3 半僧坊参道と熱海

 

 結城信一には「塵労」(「明日」昭和二十三年二月号)という短篇小説がある。単行本未収録の初期の作品である。体験をもとに虚構を織り交ぜて一篇の小説をつくる、といった手法によって書きあげられた作品が、結城信一には数多くある。一種の私小説であろうが、「塵労」も、その一つにあげられる。

 「塵労」は、十一年前、まだ少女のときに知合った万里子が二十歳になるのを心待ちに期待しながらも、愛する万里子をあきらめるようにして、不遇な死に方をした妻と結婚してしまった山村の孤独と悔恨が描かれている。病後の山村は、眠れないままに、日記の余白に万里子のことを書いてしまう。時々出かけてゆくダンスホールの娘があまりにも万里子に似ているので、本当に万里子ではないかと思いこみ、つい声をかけてしまったりする。そんな山村の心奥では、いずれ万里子を訪ねてゆくことになるだろうといった漠然とした思いが、やはり、現実になってゆく。

 そこは、鎌倉の建長寺境内にある小さな僧庵であったが、山村はかつてその僧庵で偶然万里子に会ったことがある。

 《……鎌倉に行つた序でに、万里子がよく遊びにゆく知合ひの僧庵といふのは、どの辺であらうといふ好奇心から其処に立寄つたのであつたが、そのとき私は一人の友達と一緒であつたし、万里子の傍には母親がゐたので、その僧庵では一杯の茶を飲むこともなく、門前であつけなく別れてしまつた。今考へてみれば、万里子と私との関係は、結局そのやうな淡い、はかないものであつたといへるのかも知れないが、万里子はやはりいつまでも心の中で私を愛してゐたのであらう。でなければ、横浜から鎌倉に疎開するといふ便りを何のために呉れたのか、私には解釈のしようがない。……》

 この万里子との思いがけない邂逅は、「塵労」から二年後に発表された「冬隣」(「群像」昭和二十五年六月号)のなかにも見出すことができる。「冬隣」は石塚友二が《澄んだ美しい作品》(「野火」昭和二十五年八?九月号)と評した短篇小説である。結城信一の細筆は、単行本のなかで七ページにわたり、当時をなつかしむかのように、一行一行を丹念に叮嚀に書き誌す。『百本の茨』によると、昭和十三年春、四月末ごろであった。少女と出会った駭きと興奮を、結城信一は「冬隣」と「塵労」のなかに書かずにいられなかったのであろう。

 このとき一緒にいた友達とは、「炎のほとり」と「炎のなごり」の毛利のモデルになった千葉眞幸である。千葉眞幸で思い浮ぶのは、結城信一が第二早稲田高等学院のとき、千葉氏の故郷岩手県平泉に一週間滞在して紀行文「みちのくにて」(『雰囲気』所収)を書いていることである。終戦後、昭和二十年十一月ごろより、千葉眞幸は結城信一とともに雑誌「ロゴス」の編輯に携わっていたが、翌昭和二十一年三月二十日急逝する。「ロゴス」第二号(昭和二十一年六月)の「後記」の末尾には、《創刊号に「天平の藝術」を寄せた本誌参画者の一人千葉眞幸氏が此のたび急逝した。有為なる人を失ひ寥寞に耐へない》、とある。結城信一の文章であろう。

 あらためて「冬隣」を読みかえしてみると、この一篇もまた、その一行一行に《私の少女》を失った深い悲しみがこめられている。《冬子がゐなかつたら、僕の青春は、いや僕の人生は全くの空白でありました》と誌された一節が、結城信一の癒し難い憂愁の思いをなによりも物語っている。「炎のほとり」と「炎のなごり」を読んだあとにして思えば、この三十八年前の亡友千葉眞幸を偲んだ二つの鎭魂曲に描かれた悲恋も、「冬隣」のなかでは、結城信一の心に引寄せられ、作者自身の《私の少女》との愛の日の記憶とともにかたちをかえて書きこまれている印象がある。

        ○

 「塵労」には、空襲で妻子を亡くした山村が、もう七年も会っていない万里子を思い浮べては、秘かにその思い出を告白している文章も読むことができる。また、《妻にそつと隠すやうにして、愛着といふより捨て切れぬ未練から蔵書に紛れこませるやうにして防空壕に入れてをいた、五十通あまりの万里子の手紙類》がある。山村の告白文は、『百本の茨』を読むことによって、その一節とまったくおなじもののようにも思える。『百本の茨』のなかには、一部分ではあるが、墨書された古い半紙を継ぎ足して一丁にしたものや、陽射しによる焼け具合、誌された文字の大きさなどのあきらかに違うものが認められる。そこには、だいぶ以前に書かれた草稿の一部もそのまま使用されているようである。

 結城信一が鎌倉の僧庵に少女を訪ねたのは、終戦の翌年、昭和二十一年十月のことである。結城信一、三十一歳。横浜に住んでいた少女が両親と建長寺境内にある小さな僧庵に疎開したのは、「塵労」にも誌されているように、結城信一が結婚した翌年、すなわち昭和十九年であろう。九月二十四日附の鎌倉へ疎開するという最後の葉書をもらいながら、結城信一はときに少女への烈しい愛情が甦ってくることもあったが、積極的に訪ねることをしなかった。少女といっても二十一歳、もう結婚していても不思議ではない。そのような不安とともに、逆に結城信一自身すでに結婚し、一児の父親になっていた。結城信一の心奥には、自分が結婚したことによって少女を裏切った、というような気持を拭い去ることができなかったのかも知れない。戦時中のことでもあり、当時鎌倉までゆける状態にはなかったのであろう。少女のことを忘れようとした孤独で病みがちな苦しい日々を送るうちに、いつしか、二年の歳月が経っていた。もし、少女に会えるとすれば、五年ぶりになる。

 結城信一の作品、たとえば「螢草」に対する批評で私がいま思い浮べるのは、《このような世界は信じられないくらい清純である》、という山本健吉の『文藝時評』(昭和四十四年六月?河出書房新社)の言葉である。この「塵労」のなかの、《万里子と私との関係は、結局そのやうな淡い、はかないものであつた》と考える山村が、七年ぶりに万里子を訪ねてゆく行為にしても、おなじように、普通では《信じられないくらい清純である》、といえるかも知れない。

 しかし、このことは、結城信一にとって絵空ごとではなかった。紛れもない現実であったことを知らされて、私はそこに人間結城信一を見出さずにいられない。《「私は愛してゐる、併しそれは私が男で、この人が女だからではありません、この人と一緒になると、私はいつも、この人は何か第三の性に属し、私は第四のそれに属するやうな気がするのです」と言つたふうの愛情の中で側にゐてほしい》一人の少女の出現を待ちのぞんで、此の世での、運命的な、またとあろうかと思われるような邂逅をした少女であったからこそ、結城信一は訪ねていったのであろう。少女へ寄せる誠実で一途な思いの強さに、私は心打たれたのであった。

 五年という歳月は、結城信一にとって、星のまたたきひとつの、ほんの一瞬でしかなかった。

 《……梅雨曇りの、今にもまた雨が落ちて来さうな薄ら寒い夕暮であつた。平常でも杉木立の鬱蒼としたもの淋しい半僧坊参道は、そのやうな夕暮のことで、山と山が呼び合ひ一瞬の中に強い風でも吹起しさうな不気味な静寂さをすら湛へてゐた。山村は万里子に七年ぶりで会へるかも知れぬと思ふと、胸が熱くなり、頻りに動悸してくるのであつたが、それは然し決して楽しいものではなく、寧ろ苦しい憂鬱なものであつた。彼は湿めじめした参道を辿り、細い石径を少しづつ登りながら、今のうち引返してしまつた方が実際はいいのだと思ひながらも、然し足は僧庵に一歩一歩近づいて行つた。……》

 二つの思いが攻めぎあい、逡巡する山村の心奥には、しかし、万里子の顔しかなかったであろう。それは、十八歳の万里子の顔なのである。七年前、山村が最後に会った万里子は十八歳であった。訪ねてゆく僧庵にいる万里子は、もう二十五歳の筈である。半僧坊参道をたどってゆく山村に、二十五歳の万里子の顔が想像できたであろうか。山村にとって、つねに心に浮ぶ万里子の姿は、七年前に会った十八歳の永遠の少女なのだから。

 私には、「青い水」(「文學界」昭和二十八年十月号)のなかの一節が想起される。

 《……私の瞼の中には、二十五の鮎子の姿が浮んで来ない。私が既に八年間胸に抱きしめてきてゐるのは、十七の鮎子である。八年の間、その姿は一向に成長しないまま私の瞼の中に灼きついてゐる。私は成長した筈の鮎子を胸に描かうとするが、十七の鮎子の姿がきびしくその妨げをする。想像の中で二十五の鮎子を一応は描くことが出来ても、実感がない。全く別の女性を思ひ描いてゐるのと、同じやうな虚ろさだ。……》

 また、小品「緑の木蔭の中で」(「アルプ」昭和四十九年八月第一九八号)の冒頭の一節も思い浮ぶ。

 《ロッヂから出てきた若い娘は、白の袖なしのカラーシャツで、短い赤のスカートであつた。健康さうな後姿を見送つてゐるうちに、十七歳なんだな、と私は咄嗟にきめこんでゐた。理由はない。さう思はれただけのことで、またさう思ひすがることに、私自身のこころのやすらぎがあつた。……》

 このとき、結城信一は五十九歳である。少女と最後に会っていらい、三十三年たったのちでも、《さう思ひすがることに、私自身のこころのやすらぎがあつた》と誌している結城信一の心奥には、いまだ回帰すべき故里のような《私の少女》との思い出があったことがうかがえて興味ふかい。死と隣合わせて生きることをみずからの戒律として、さらには《死者の仲間》となって、一筋の少女への愛と死という鎭魂の歌を執拗なまでに繰返すことは、結城信一にとって、単なる偶然ではなかった。ましてや、小説をつくる上での、安易な気持からの繰返しでは毛頭ない。

 結城信一は自画像を丹念に描きつづけてきた以上に、《私の少女》に心底ふかく打込んでいたのであった。もはや結城氏にとって、《私の少女》は、あたかも運命的な機能をもって迫ってくるかに見える。結城信一の心奥には、つねに十八歳の《私の少女》が甦り、またときに、《私の少女》へと回帰する。このことは、結城信一が少女へ寄せる、此の世での愛の深さによるものであったのかも知れない。《私の少女》への思いは、繰返し描くことによって、さらに一層凝縮され深化されてゆく。鎭魂の言葉で綴られた作品は、そのときすでに、過ぎ去った少女との日々を描いた単なる回想ではなく、一つの肉感的な優れた美術品にも似たものとして創出される。「空の細道」へ寄せた吉行淳之介の言葉によってもあきらかであろう。

 結城信一の文学的営為は、過ぎ去った《私の少女》との美しい思い出を完全に所有しようとする命の燃焼を物語るものといえる。蝋燭の《燃えつきようとする最後の瞬間を、私は決して美しいとは思はない》、という言葉が「山毛欅」(「群像」四十八年十月号)のなかにはあるが、しかし死を意識すればするほど、燃えつきようとする孤独な命の青白い炎は、より一層強烈に燃焼するのではないだろうか。

 山村は半僧坊参道をたどり、静まりかえった小さな僧庵の前に立った。

 万里子たちは、しかし、そこにいなかった。

 念のために呼出した尼僧のいうことは、こうである。

 《……「かういふものをお預りしてゐますけど。……私も最近こちらに住むやうになりましたので……」と云つて、傍らの机の抽出しから何やら書いてある一枚の紙片を取出した。山村はそれを受取るか受取らぬうちに、その筆蹟が紛れもない万里子の文字であることに気がついた。––熱海市和田浜南区……と書いてある。山村は鉛筆書きであるが見馴れた万里子の文字を、一字一字、薄い夕明りの中で憑かれたやうに見つめだした。(あゝ、熱海にゐるのか……)……》

 山村の胸奥では、このとき、どのような熱い思いが駆けめぐったであろうか。その思いこそ、結城信一がこの小説で書きたかった唯一のことではなかっただろうか。

 「塵労」の最後の一節は、こう締め括られる。

 《……彼は蹌踉として僧庵を出ると、もと来た道を夢のやうに歩いた。(熱海、熱海、熱海、……よし、熱海へ行つてみよう)

 建長寺の境内を出ると、彼はふと空をふり仰いだ。高い杉の梢の先から、細い雨が音もなく降つてゐた。》

 この作品の背景には、すでに結婚し、一児の父親になっていたにもかかわらず、《私の少女》を訪ねずにいられなかった結城信一の深い憂愁に閉ざされた孤独と悲しみが、はっきりと読みとれる。

        ○

 結城信一の作品のなかには、「塵労」の末尾の一節が書かれているものが、もう一篇ある。「塵労」より五年後に発表された「熱海」(「文學界」昭和二十八年五月号)である。「熱海」は、結城信一が愛した少女、作中では池内幹子に会いに熱海の赤根白石へいったことが描かれる。いわば「塵労」の続篇にあたる。

 私には『百本の茨』や「塵労」「熱海」も、それぞれ一篇の私小説作品であるかのように読みとれるいっぽう、その事実と虚構の区別はつけがたい。三つの作品のなかには重複する記述を多く見出せて興味ふかいのだが、実際のところを私は知らないし、ここでは、未知の部分についての詮索は差控えたい。ただ、これだけは、いえる。『百本の茨』には、鎌倉の建長寺境内の僧庵に少女を訪ねたことは書かれているが、熱海へいったことは書かれていない。熱海にゆかなかったことへの悔恨の念と孤独が誌されているのである。

 「熱海」のなかで、結城信一は、次のように書く。

 《……熱海に来たのは、自分の一つの感傷なのだらうと私は思ひはじめた。私はその感傷を満足させるためにやつてきたのではないか。誇張していへば私は一つの事件を期待してゐた。三十三になつた男と二十六の女が何年ぶりかで再会したときの、華やかな官能の火花を予想しないこともなかつたのだ。……》

 二月初旬、熱海を訪れた《私》は、翌朝伊東行のバスで赤根白石までゆくが、めざす家の門柱に取附けられた二つの表札から、幹子がすでに結婚しているのを悟る。幹子に会うことも叶わず、結局《私》は、幹子が住んでいる家のたたずまいと真新しい二つの表札を見ただけで熱海へ引返してしまう。《自分はいつも機会を逸し、機会の後ろからばかり歩いてゐるのだ》、という自嘲と寂寥の思いを胸にいだきながら。

 「熱海」には、二十六歳になった池内幹子の姿を見出すことはできないが、幹子によく似た少女を登場させている。熱海に着いたその日の夜、ホテルの卓球室で伊上和代という少女と知合ったことが描かれている。

 《……二人の娘がピンポンをしてゐた。

 その一人がまだ女学生のやうで、編んだ髪が両肩に垂れてゐたが、私は図らずも幹子に出会つたやうな幻覚をおぼえると、いつしか卓球室の中に入つてゐた。

 (まさかに幹子ではあるまい。要するにひどく似てゐるだけの話だ。第一この子は十七か十八ぐらゐなのだし、幹子はもう二十六なのだから……)

 しかし私は、十八歳の幹子と語合つた日日のことを侘びしく思出しながら、その幹子が今、あのころと全く違はぬ姿で、しかも声まであのころの声そのままで自分の眼の前にゐるではないか、これが幹子ではないのか、と思はずにはゐられなかつた。……》

 また、幹子を訪ねた帰路、赤根白石から熱海へ引返すときに偶然乗せてもらったタクシーのなかで、《私》はふたたび伊上和代に邂逅する。肝腎の池内幹子には会えずに、かつての幹子によく似た少女伊上和代に思いがけず二度までも会ったことが描かれる。興味ふかいことに「熱海」には、《私》のことを書いた伊上和代の小品文『熱海』が挿入されている。そこには、少女の眼に映った、幹子を赤根白石に訪ねた《私》の姿が描き出されているのである。

 少女の書いた小品文といえば、『熱海』のほかにも幾つか思い浮ぶ。「鎭魂曲」(「近代文學」昭和三十九年一月号)なら松宮千枝子が書いた感想文『かねたたき』であり、「鶴の書」では折鶴に書かれた由美子の遺書になっている。「木蓮」(「オール讀物」昭和二十七年六月号)の竹村千恵子や「山吹」(「早稲田文学」昭和三十四年三月号)の今西眞紀子、「三渓園」の名前を思い出せない少女などでは、それが手紙のかたちになる。これらの遺書や手紙からは、《心の底から滲みだしてくるやうな、素直な献身の様子》が感じ取れる一人の少女の姿を髣髴とさせられるし、また、《心の籠つたいたはりと、魂のあたたかみがある》愛の言葉で綴られている。

 小品文『熱海』における伊上和代の眼に映った《私》、たとえば、タクシーのなかで偶然邂逅したときの《私》と少女との二つの魂の交感を、結城信一は次のように叙述する。

 《……「先程赤根白石といふところがあつたが、ひどく淋しいところですな。あれでも家があり人が住んでゐる。若い女の人なんか、とてもゐられないところだ。一ト月もゐられまい。疎開でもしたのなら兎も角、戦争はもう終つてゐるのだし、とても若い女の人なんか……」

 私は暫くして、思はず息をのんだ。あゝ、このかたは愛してゐた人があつたに違ひない。その赤根白石といふところに!

 伊東の駅に着くと、あのかたは、私に挨拶をして云つた。

 「おしあはせに––」

 私の頭をチラリと見ただけで、それが最後の言葉だつた。

       〔略〕

 ……私の耳の底にはいつまでもその「おしあはせに」がこびりついてゐた。私はやがて空想してみるのだつた。あのかたの愛人が赤根白石にいらしたのだ、けれどもそのかたが、もう其処には居られなかつたが、それとも其処で亡くなつてしまはれたのではないのかしら……。》

 私は「熱海」を読みかえして、これはあきらかに十八歳の《私の少女》を描き出したのだと思った。結城信一は心奥で大切に育ててきた《私の少女》の幻影を探し求めて歇まない。かつての幹子によく似た伊上和代を描くことによって、脳裏に刻まれた《私の少女》の色彩を昔日の鮮明さに甦らせている。結城信一の心奥に棲む《私の少女》は、結城氏が年齢を重ねても、十八歳の姿のまま生きている。いまや成長を知らぬ永遠の少女の面影となって刻みこまれている。そこにこそ、結城信一が密やかな夢と憧憬の鎭魂曲を幾重にも奏でつづけることは可能なのである。じっさいそれは、結城信一が処女作いらい十二年にわたる仕事の日々にあっても、依然として自分が立っていた最初の日を美しい青春の命の象徴として、さらに胸奥ふかく彫りこむかのように鎭魂の言葉を綴ってきたことにほかならない。

        ○

 「塵労」や「熱海」には、『螢草』一巻に描き出されたのちの、深い憂愁に閉ざされた作者結城信一の姿が刻みこまれている。戦争末期、一巻の遺稿として書き綴った「螢草」とおなじように、《書かずにいられなくて書きあげた作者の嘆きは、やはりそのまま読者の胸につたわってくる》(平野謙)、結城信一の鎭魂曲であった。

 「塵労」には、「鶴の書」の主要な断片をも読みとることができる。戦争の終結する四ケ月ほど前に購入した河井寛次郎の辰砂偏壺のことや、空襲の最中、乳母車を押して逃げながら群衆の浪に揉まれ、妻子を亡くしてしまったことなどは、九年後の「鶴の書」として改作され、みごとに昇華されている。辰砂偏壺については、「河井寛次郎の壺」(「求龍」昭和五十四年五月号)がのちに書かれている。おそらく「塵労」は、結城信一自筆の「著作目録」から抹消されている作品かも知れない。《詩情をたたへてゐるのが好ましい》、と澁川驍の文藝時評(「明日」昭和二十三年十二月号)に取上げられていることを書きとめておく。

 しかし、私がなによりも注目したいのは、『百本の茨』の冒頭はすでに「塵労」から引用した文章にもあったとおり、結城信一が五年ぶりに少女へ会いに建長寺の半僧坊参道の石径を登ってゆくところから書き起こされていることである。

 ちなみに、「塵労」と「熱海」が発表された昭和二十三年と二十八年について見ると、結城信一の文学的生涯のなかで、七篇と六篇という一番多くの小説作品が活字になっている年なのである。昭和二十三年は結城信一、三十三歳、「秋祭」で文壇に登場した年であり、五年後の昭和二十八年は三十八歳、『螢草』所収の最後の作品「落落の章」が「早稲田文學」五月号に発表された年であった。

 さて、伊上和代の小品文『熱海』の末尾は、いまだ《私の少女》との魂が通いあっているかのような祈りにも似た願いを含ませて締め括る。

 《「……私の家の庭には、二本の梅の木がある。熱海の梅はほとんど散りかけてゐたが、庭の梅は堅い冬の殻から可愛らしい白い顔を、星をつらねたやうに見せはじめてゐる。慎ましげな、ほのぼのとした花の香りは、あのかたの秘めた嘆きを伝へて来るやうな気がする。夕暮の梅の下に佇むと、『おしあはせに』と小さく聞えて来さうにも思はれる。私はときどき、その声が聞えたやうな気がした」》

 

   4 ふたたび『百本の茨』

 

 私は冒頭で、《百本の茨》とはなにか、と述べた。

 この小篇を締め括るにあたって、私はふたたび、《百本の茨》とはいったいなんであろうか、とつぶやきかえしてみたい。

 むろん《百本の茨》とは、未完に終った自伝的連作小説と《私の少女》とのあらましを告白した「秘稿」という二つの作品の標題なのであるが、私はこの言葉に結城信一の積年の魂の傷みがこめられているのを感じる。結城文学を考える上で、まことに象徴的な、また頗る結城信一らしい言葉に思える。「有明月」「暁紅」というわずか二篇のみの発表に終った未完の長篇には見出せなかった言葉が、『百本の茨』のなかには、二箇所にわたって読むことができる。

 そのうちの一つは、末尾の部分に見出せる。

 《……私には、やはり、文学的才能などはなかつたやうだ。また、運といふものにも、結局恵まれなかつたやうだ。恵まれなかつたといへば、健康にも恵まれなかつたし、家庭にも全く恵まれなかつた。つまり、何から何まで「運」には恵まれなかつたわけだ。

 少女と知合つたことだけが「ほとんど唯一の幸運」と言つてもよいかも知れない。その幸運を愚かにも私は自分の手で逃がしてしまつたのである。今私は、自分の全身に百本の茨に刺された痛みを感じてゐる。すべては遠く消え去り、残されたものは、徒らに重ねてきた虚しい月日と、この百本の茨の痛みだけだ。……》

 ここで重要なのは、唯一の《幸運を愚かにも私は自分の手で逃がしてしまつた》、と誌されていることであろう。結論から先に述べてしまえば、結城信一は少女を死によって失ったのではなかった。

 《私の少女》は亡くなっていなかったのである。が、それが問題なのではない。少女との愛を断念したそのときすでに、結城信一は《私の少女》を失ったことになんらかわりはない筈であるから。だから結城信一は、終戦の翌年、昭和二十一年十月に鎌倉の建長寺境内の僧庵へ五年ぶりに少女を訪ねた体験をもとにして「塵労」を、さらに続篇である「熱海」を書かずいられなかったのであろう。『百本の茨』には、「螢草」の慶子に死を与え、「鎭魂曲」の千枝子にも死を与えているのは小説作品の結末としての文学的必然であった、とも誌されている。

 結城信一は少女をあまりにも大切にしすぎて、知らず識らずのうちに、《美の殿堂》へ祭りあげてしまったのかも知れない。少女との結婚をうまく成就させようと考えすぎた結果、かえって考えが不足していたのかも知れない。《結婚も出来なければ自殺も出来ず、戦死をすべく兵隊にとられる可能性もない自分はどうしたらいいのか。冬子は所詮僕に取つては届かざる天上の花である》、とは「冬隣」の一節である。《私は十九の幹子を待ち、二十の幹子を待つた》。《私は幹子を待つことに漸く疲れてきたが、これは私の愚かなる意地だつたらう。私は、十九の幹子と語りながらその幹子に親しみ、更に二十の幹子と語りながらその幹子に一層親しんでゆく機会を、虚しい片意地の中に失ひつつあつたのだつた》、とは「熱海」のなかの一節であった。《激情から放たれた常住無言の愛情ほど世に気高く幸福なものはない》、というヘルマン?ヘッセの言葉が好きだった結城信一は、少女を愛しながらも遂に奪うことができず、逆にみずから身を引くことによって少女を失い、はからずも暗い陥穽に落下し、閉ざされてしまった。

 結城信一の消極的にも失恋したように少女をあきらめ、《私の少女》からそっと静かに遠ざかってしまわねばならない道を選択してしまった悔恨の念と孤独が、この《百本の茨》という言葉には凝縮されているのである。

        ○

 結城信一が少女に死を与えているのは、はたして、小説作品の結末としての文学的必然だけであったのだろうか。

 私にはただそれだけではないように思われて仕方がない。この疑問には、結城信一が随筆や作品で繰返し答えている。「『ルドン』への夢」(「出版ニュース」昭和三十年二月上旬号)のなかには、次のようにある。

 《……私は、「処女の謎を秘めた束の間の晴れやかさと憂愁」を追つて書きつづけてゐる。少女といふものは、いづれ誰かの手によつて奪はれるか、さもなくば、「死」によつて奪はれるか、その何れかだからである。……》

 また、「交響変奏曲」のなかには、竹取物語を《処女の純潔に対する憧れの書》として読んだことが述べられ、かぐや姫について誌した一節もある。

 《……私はこの物語の作者が、その比類のない美しく叡智に溢れた娘を、誰の手によつても奪はれたくはなかつたのだ、と思つた。如何なる男の手によつても、この少女の純潔を汚されたくはなかつたのであらう。だから多くの求婚者たちの手を拒んだばかりでなく、あの帝王の手さへも拒んだのである。……》

 この文章に至って考えてみれば、結城信一が作中の少女に死を与えているのは、一つに文学的必然もあったであろうが、その心奥には、《比類のない美しく叡智に溢れた娘を、誰の手によつても奪はれたくはなかつたのだ》、という強い愛の思いがあったことが頷ける。この思いの底には、死を与えてはいるものの、逆に少女に生きて幸福になってもらいたいという気持とともに、《少女の清潔さ》が、成長するにしたがって失われてしまうことを恐れた結城信一の、秘かな願いがこめられていたにちがいない。

 では、《その比類のない美しく叡智に溢れた娘を、誰の手によつても奪はれたくはなかつたのだ》、とある少女は、もとより、結城信一の心奥に永遠の少女として刻みこまれた十八歳の《私の少女》であった。処女作「冬夜抄」や出発作「鶯」以後に書かれた作品に登場する少女たちは、「冬夜抄」の禮子や「鶯」の村瀬葉子とおなじように、そのほとんどが《私の少女》を念頭に置き、イメージして描かれたものにほかならないのだから。

 「鶯」に登場する六十二歳の最上老人は、終戦の年の冬、ふと思い立って横浜の街に出かける。教え子の村瀬葉子の住んでいた家や葉子が通った学校を見るためだった。七年前の五十五歳のとき、最上老人は横浜のある私立女学校を経営している古い友人から英語の教授を頼まれて、そこで村瀬葉子を知る。「鶯」はその葉子との物語である。葉子はどんなふうに描かれているのか、作中から、二、三引用してみる。

 《「いつたい、えらい人つて何んな人のことを貴女方は考へてゐるのかね」

       〔略〕

 暫くして村瀬葉子が急に立上つて言つた。

 「常に純粋を保つことの出来る人」》

 あるいはまた、最上老人が葉子をつれて、銀座の青樹社の二階で開催中の特異児童の絵画展覧会を見にいったときの会話である。

 《「天才ですね、先生」

 葉子は繰返して言つた。

 「純粋な幸福といふものですわ、あの絵をこしらへた少年」》

 《「葉子は幸福といふものをどんな風に考へてゐる」

       〔略〕

 「私はお母さんがゐますから幸福だと思つてゐます」

 「それだけかね」

 「ねえ、先生。一日のうち一時間でも二時間でもしあわせだとか、たのしい、といふ気持を持つことが出来たら、其の日は幸福といふものですね」

 「その一日が毎日連続すれば幸福な一生といふ訳なんだね」

 「さうなんですの」》

 最上老人が教室のなかでその存在に気づいていらい、あえかな愛情をいだきつづけ、養女にしようとまで思った村瀬葉子という女学生の姿の一端はこれでわかるであろう。ただ、葉子に、結城信一は死を与えていない。結婚させている。少女たちが死んでゆく作品がほとんどのなかで、これは例外の一つであり、注目に値する。

 少女を結婚させているのは、「雪のあと」の磯貝直子もおなじであるが、六十代への文学的出発作「文化祭」の磯貝邦子に至っては、《最早この少女の美しさに耐得なくなつた作者は、永遠の処女としておくためには月の世界に帰してやる、といふ結末を選ぶよりほかはなかつた。月の世界に帰せば、誰の手によつても奪はれずにすむばかりか、「死」の手さへも拒むことが出来るからである》、という「交響変奏曲」の一節を想起させるほどの思いがこめられている。出発作「鶯」から、処女作「冬夜抄」の一部を織り込んだ「雪のあと」を経て、さらに「文化祭」へと至る二十八年間にわたって改稿されつづけてきたこの短篇小説は《処女の純潔に対する憧れの書》であり、末尾の《……此処のところで、終つたな……》というつぶやきのなかには、如何にしても心を通わすことのできない作者の深い悲しみが漂っている。「文化祭」は二つの魂の微妙な交感が美しい旋律を奏でているのであるが、そこに結城信一みずからの、青白く燃焼する孤独な命の炎を垣間見たかのように思い、私の心はおののいた。

 この「文化祭」の前年に発表された「山毛欅」には、《「仲間と一緒になつてゐればいいが、一本立ちでゐては、辛いことです。……樹木とおなじですよ」》という、意表を衝かれた言葉があって駭かされる。それも、『文化祭』一巻の最後の作品の末尾の言葉としてあるのだから、ことのほか興味ふかい。「山毛欅」の一節が織りこまれている小品「落葉の創作」にも、《草と木と風とを友にしてあればわが世はたのし君とあるより、といふ歌に共鳴したのは、じつは昔のことです。このごろの私の心境は違ひます。鳥だつて、一羽だけぢや飛んでゐられません》、と繰返し述べられている。いずれも作中の友野さんに語らせてはいるが、おそらく結城信一自身の眞情を吐露した言葉であり、これはやがて連作体短篇集『空の細道』へ至るあらたな深化を見せる兆になる。

 さて、「鶯」であるが、作中では村瀬葉子が一人娘のため養女に貰うことは叶えられず、最上老人はあきらめざるを得なかった。最上老人と葉子とのことは、老人と少女にはなっているが、それはあたかも結城信一と《私の少女》との愛の日の記憶に重ねられ、描き出されている。標題の「鶯」は、末尾に収められている短歌の一首《暁のやぶうぐひすのわが夢にいりつつ遠き花の雨かな》であり、愛する《私の少女》の化身にほかならない。

        ○

 「鶯」には横浜の街が出てきたが、横浜といえば、《私の少女》が住んでいた土地である。「鎭魂曲」や「文化祭」の作中には《Y市》と誌されている。ここでは、「三渓園」(「それいゆ」昭和三十四年十月第五九号)から、冒頭の一節を引用する。

 《私はときどき、急に思ひ立つて、横浜に出かけてゆくことがある。ときどき、と言つても、年に二度か三度ほどであつて、それも取立てて目的があるわけではない。

 しかし全く目的がないのか、と言へば、そうでもない。それは明確に、ある、とは言へないだけであつて、心のどこかには、微かにその目的らしいもの、或ひは目的ではなくても、目的といふ言葉以外にはうまい言葉が見当りさうもないもの、はひそんでゐる。……〔略〕……たとえば、愛情といふやうな……。》

 戦後、結城信一が思い立って横浜に出かけていったのは、心のなかにしか存在しない《私の少女》への《愛情》からであった。あるいは、《郷愁》からであった、といってよいかも知れない。《ほんの短い、旅に出るやうな気持でやつてきたんだからね。寂しくてたまらなくなつて旅に出るときもあらうし、寂しい静かな思ひに浸りたくて旅に出ることだつてあるだらう。……私のは、いつたい、そのどちらなんだらうか》。作中の《私》は、自分自身にむかってそうつぶやいてみるが、この思いは作者結城信一の偽りのない実感でもあったろう。また、《旅愁と名づけてもよいさすらひのあはれは、この広い都会の一隅に孤独に生きなければならぬ私自身の内部で、絶えず大きく揺れてゐて、謂はば一日一日がすさまじい旅愁であり、旅に出てしまへば旅のあひだ、そんなぽつんとした自分が一層確かなものになつてきて、黄昏の中の草の穂に似た暗い自分自身と、始終まともにつきあつてゐることになつた》、という文章も、私には思い浮ぶ。これは、「三渓園」から五ケ月後に発表された「深雪」(「アルプ」昭和三十五年三月第二五号)のなかの一節である。

 結城信一にとって、生きることは帰宅のない旅であり、《謂はば一日一日がすさまじい旅愁で》あったことがうかがわれる。そんな烈しい孤独を心奥にいだきながら、さらに深い孤独を求めるかのように、結城信一は一人で横浜の街を歩く。そのとき、《私の少女》に会いに何度か足を運んだ戦前の日々を思い浮べていたであろう。しかし戦後の横浜は、昭和二十年五月二十九日の朝、空襲で焼けてしまっているから、当時とはちがっていた。結城信一が思い立って横浜の街へ出かけていったのは、少女に偶然会えるかも知れないといった期待感からではなく、少女との《遠く過ぎた古い日を、一つ一つ拾つてゆく》(「雪のあと」)ためにほかならなかった。一日、横浜に滞在して創作することのできたと思われる短篇小説が、私には何篇か想起される。そのなかの一つが「三渓園」であった。

 横浜は、登戸海岸の「松琴堂」とおなじく、大切な《私の少女》との思い出の土地であり、戦後は結城信一の心の故里になっていたのである。

        ○

 『百本の茨』の巻末には、《昭和三十九年二月二十九日脱稿。/(辰年の潤年の如月末日)》と誌されていたことは、すでに述べた。この日附は、「鎭魂曲」が「通遼日記」(「群像」昭和三十五年八月号)いらい四年ぶりに「近代文學」(昭和三十九年一月号)に発表されたあとで《脱稿》されたことを意味する。

 私は『百本の茨』の墨書された行間に、結城信一のひたすらな嘆きの声を聴きとるとともに、むしろこれは挽歌の調べではないか、とすら思った。もはや此の世にはいないかも知れない《私の少女》の、そしてみずからがやがて滅びてゆこうとする死の予感のなかで書き綴った『百本の茨』一巻は、やはり結城信一の挽歌であった。結城信一、四十九歳。健康もすぐれず、小説も書けない不調な一時期でもあった。昭和三十六年六月の二回もの大量吐血いらい、自宅療養をつづけてきた結城信一ではあったが、『百本の茨』脱稿の年である昭和三十九年の十月九日に、胃の三分の二を切除する手術をしている。二度目の胃潰瘍から三年の歳月が経っていた。最初の昭和三十五年夏から遡ると、五年にわたっての胃潰瘍である。この長い胃潰瘍に苦しんだ結城信一を、さらに苦しめ抜いたのは、昭和三十八年の道路工事からはじまった環状七号線の騒音と振動と排気ガスであった。結城信一は三度目の胃潰瘍の再発を心のなかで予期し、遺稿としてまとめた仕事が「鎭魂曲」であり、さらには『百本の茨』であった。

 私は『百本の茨』を読みかえすうちに、異様な感銘と興奮を覚えた。結城信一みずからが死へと一歩一歩近づいてゆくかのような鬼気人に迫るものを感じて、軽い眩暈すら覚えた。青白い命の炎で私自身焼かれてゆく思いがしたのである。《百本の茨》という言葉には、単に少女を失った不幸だけではなしに、結城信一の生涯にわたる魂の傷みがこめられ、結城氏の人生を象徴するものであったのだから。

 『百本の茨』のなかには、次のような一節も書きこまれていて、印象ふかく私の心奥に銘記されている。

 《……私の作品の大部分は少女を愛さなかつたら決して書かれることのなかつたものだ。更に正確に言へば、私の作風そのものが、既に少女との心の触れあひの上で生れたものだつたのだ。美しい抒情、とか、清潔な詩情、などと一部の人々から批評されたこともあつたが、もしさうなら、その抒情の流れをたどつてゆけば、その源には、少女からもらつた愛の雫がこぼれてゐる筈である。……》

 少女は結城信一の命の象徴なのであった。少女と邂逅し、少女を愛さなかったら、いま在る結城文学は生れなかった。みずからの死を予感しながら、最後の命の炎を燃焼させるかのように四年ぶりの力作「鎭魂曲」を書き終えた結城信一にとって、『百本の茨』を脱稿する以外、《私の少女》へ寄せる、もう、どのような強い愛の表現があったであろう。悲しみの深さは、じつに『百本の茨』一巻に極まっている。

 いわば、『百本の茨』は結城信一の青春の書、あるいは失われた青春の書でもあった。そこには、喪失することによって逆に所有する青春の背理が存在している。《すべては遠く消え去り、残されたものは、徒らに重ねてきた虚しい月日と、この百本の茨の痛みだけだ》、と結城信一は回想しているが、まさにそのとおりであったろう。同時に私には、遥か遠くへ過ぎ去った月日のなかに残されたものは、結城信一の善良さと《私の少女》との美しい思い出だけではなかったのか、といった感慨を覚える。『百本の茨』脱稿以後、結城信一は二十年余の歳月を、心のなかの《私の少女》とともに辛抱強く生きてきた。その六十代最後の仕事としてふたたび自伝的連作小説『百本の茨』執筆にむかったとき、純粋な詩魂を生涯もちつづけた稀有な小説家結城信一は、《私の少女》との美しい思い出を胸奥にいだいて滅びたのである。

 そのとき、私の耳には、《人が死んでゆくとき、愛の思ひのほかに何が残るか》、という結城信一の静かで低い、しかもちから強い声が聴こえてくるかのように思われた。私は確かに、その声を聴いたような気がした。

(了)

 

2001--2002 日本文藝館編輯室