風のいろ


子等二人帰る気配に闇さやぐ揺らぎて花の近づく如く

 

をみな子を行かせしからに憂ひあり街にあららけき事は起らむ

 

変革の喚声に血の流れしは昨夜(よべ)なる朝の薄ら雪藉(し)く

 

春いまだはだれ残りて変革を急(せ)くものの息孕む街なる

 

二月二十六日雪の日われは幼くて母の辺(へ)転ぶごとくをりしか

 

幼くて拾ひ読みせし母の雑誌日蔭の茶屋伊藤野枝平塚らいてふ

 

呆けゐる己(おのれ)はららく雪降れり猶しも見れば螺旋にぞ降る

 

いと小さきけもの咀嚼の音しつつ雨降りいづる春の落葉に

 

扇塚足下に低し連れ立てる稀なる遇(あ)ひも過ぎて思はむ

 

ある朝意志のかたちを垣間見ぬつややかに白き骨のごとかり

 

ここに命落すと読めりとり落す何にたぐへて悲しみたらむ

 

木の暗(くれ)に鳩ひそみゐて軽きもの落つる速度に羽落ちにけり

 

何時の日も山のなだりに日の照るはさびし信濃もわがふるさとも

 

わが旧(ふる)き姓に同じく名は美恵子少女にてひとり空爆に死す

 

むかし征途と言へる言葉にうら若く行きし学徒ら還らずなりぬ

 

今朝諸々(しよしよ)のむらさき秋は地に降りて翳たたみ初む甍の面(おもて)

 

時雨してその地の秋も寒からむ今日の集ひに君の名を聞く

 

名はありてあらぬうつつにあり馴るる止(とゞ)まるものは時雨に濡れて

 

天伝(あまづた)ふ光りのごとく我に来よわが手の他の労(いた)はりひとつ

 

問ふ人のありて言ひつつ往還になぞらふ果(はて)を如何に終らむ

 

まれまれに会ひて言ふべきことならぬ「伊勢」「源氏」など言へば聞くなり

 

一舟に身は運ばれて眠りたりひと息にして雪の朝なる

 

娘が水にものを濯(すゝ)ぐと音たつるいまだせせらぎの如くはかなし

 

月ヶ瀬の梅見し春や伴はれ心定めもあらぬ春の日

 

戸を閉ざし出でゆく音を聞き止むる人恋ほしさや昼の雪降る

 

うち乱れ伏す雪柳苑荒れて繕はざれば白さかがやく

 

三輪山を映す水面(みをもて)井寺池底ひの世こそ静かなるべし

 

一樹のみ早き桜はうす曇る淡き空より花しだれたり

 

朝出でて夕べ帰るに咲き添ひて重き花枝となりしを潜る

 

春の雲動く一日のつれづれに根方の水漬(みづ)く葦を夢みつ

 

刃をあてて人の死にたる春半ば行手に花の咲かぬとあらぬ

 

樹の下に来り仰げば桜花この世にありて虚なるもの咲く

 

しだれ枝(え)の色濃き花にこめて言ふ炎と言へど鎮めむこころ

 

余呉の湖(うみ)四月も寒き頻波(しきなみ)の波打つ際に二人耕す

 

水は春の色かと問はれやさしけれ静もる湖(うみ)もしろがねを帯ぶ

 

水浴みて天女帰らぬ伝説を伝へしはいにしへ渡来の人ら

 

竜馬にて天より降り母を訪ふ慶尚北道天女伝説

 

形なき跡に史眼を養へと聞きしかな藍青の湖をそびらに

 

韓国のいにしへ鴨形土器にして背にまがなしき水桶を載す

 

今日の日も還らずといふ砂に沁む水のごときは懶惰(らんだ)ににじむ

 

世にありと在らぬとけぢめ薄れゆく母を光りに包む日あらむ

 

医学生来たりてあまた囲めるに仄白く小さき母がためらふ

 

萩はいまだ咲かぬ垂り枝(え)の嘆かひの背のごとくなる靡きをなすも

 

黄なるもの小暗き藍の空の月街路灯りて炎えたつ公孫樹

 

夕道を歩みをりつつ声洩れてさびしわが上か子の愛恋か

 

降りいづる雨音臥しつつ聞きをれば出で行きし子も草穂に似たり

 

縫ふ針にあやまちをりて思へれば足裏の責苦人を絶えしめぬ

 

山茶花のうしろ時雨れて音なきに殊にぞ白き花に日の照る

 

この秋の栗食(た)うぶるは子の母となりたるものぞ母われの辺に

 

永き日の空暮れがてに一鉢の花のようなる母置きて来ぬ

                以上 歌集「春秋花賦」より五十首

 

下草の小草を梳きて吹く風のわが胸郭に入りて乱りぬ

 

幾日の雨に撓ひて直らねば今年低けれ萩のくれなゐ

 

天地(あめつち)の隔り遠き秋苑に置かれたる子は暫くすくむ

 

故由(ゆゑよし)を言ひ分き難き戦きを翳る地球のゆゑと言はむか

 

今日在るは秋畢る苑群鳩の羽振ける風に落葉流れぬ

 

<日本の森>とて高き梢(うれ)の下描ける人に夫(つま)か手を添ふ

 

片面より光りそそぐとあらなくに背と呼ぶ人のありし昔に

 

わがものと思へるからに狂ほしき時過ぎたりし人ともの言ふ

 

別れして声音穏(おだ)しくなりしよと受話器に聞きてをりぬ歳晩

 

忘れ雪降るがにふとも機(をり)あらば訪はむと言ふも淡く消ぬべし

 

又の世にかなしき人を得たるわが為さむ仕草を夢に見てゐぬ

 

穹の青かなしき午後を恙(つゝが)ある身にて迷ひき二駅がほど

 

何せうぞ道行くままに束の間の火走る言葉人を洩るとも

 

或る時の人のさびしさ言葉とふ器をこころ充たさざりしぞ

 

力なきものは擲たれて道の辺に悲しとぞ泣くむべも悲しと

 

をさな子に業火降らぬは何本の糸に吊らるる平和か 日暮れ

 

柔らかき膚(はだへ)のものも育ちつつ己れの咎を知りて泣くなり

 

黄水仙灯ると言ひて自らの比喩のはじめを知らず幼き

 

春の花汝(な)が名を呼びて開くよと教へしからにしかは憶えぬ

 

報復の的と指さるる国土の一時夢幻花咲き重(おも)る

 

眼角(まなすみ)に額(ぬか)に覚えて花白き日なり生れたるをみな子を抱く

 

笑まひもて人と照り合ふみどり子のやがて語らふをとめとならむ

 

わが手にて育てしものも母なれば西指しゆきぬ子ろを連れつつ

 

花摘みてをりしをみな子卓上の水にひるがほ咲かせゆきたり

 

うち寄する波のごとくに娘(こ)ら来り玉散るごとく去(い)にて静もる

 

去るものは去りて静もる夕つ家(や)のわれに詩文の起らんとせり

 

さざれ石透く水に浮き流れくる一葉反りて薄き翅なす

 

父母を措きて去るにも来たるにも水の匂ひを嗅ぎてかなしき

 

火を焚きて煮焚き為さざる火を焚きて咎ある母と聞くにすべなし

 

八十に余れる父のくるるもの屋(や)を繕へと香る杉材

 

水の辺の石(いは)に揺るがぬ蜻蛉の長きしじまを目離(か)れ来にけり

 

おとなひて呼びかくる声他所ながら二度ばかりなる夕つ方なる

 

もみぢ葉の散りしづきたるくれなゐに張り渡しつつ秋の水逝く

 

惜しめとや甍に早き夕じめり降れる秋を母と在るなり

 

フィレンツェの野の花花に降り立てる女神影すも母と唱へば

 

母とわが声のひびきを同じうし歌ひぬもみぢ水の錦と

 

口あけて歌ふにのぞく丸き舌歯の無きことも今は愛らし

 

夜は瞑(つむ)り朝は瞠く母の辺(へ)に秋は美しきものを創らむ

 

遠山を襲(かさね)となして水上に母ありし日の光り薄るる

 

起伏しのひとりといへどさびしまず朝は物音(と)の誘ひありて

 

門(かど)鎖して垂るる白萩身めぐりにさんざめくものやがて去るべし

 

このものも行くとかなしゑ手足なほ稚(わか)きに相応ふ旅嚢を負ひて

 

わが門辺出づると庭のブランコにしばらく揺られ旅立ちゆきぬ

 

茫漠の空路をなほも航くならむこの地にわれを呼び馴れしもの

 

まれまれの夜空に赤き尾燈など指して言ひしが己航(ゆ)きたり

 

声近く昨日(きそ)はありたるかなしさを収めむに庭の白きブランコ

 

発たしめて何占ふとなけれども山茶花咲きぬあくる朝に

 

此処発ちて空路を航きし少年のシャツなど干せり白光がなか

 

寝(い)ね際に思ひやる児よ思へればいましがたさへ汝(な)を思ひゐぬ

 

告げやらむ紅萩高枝風に触り白萩枝垂れ風を掬ふと

               以上 歌集「水府」より五十首

 

丈低き笹の葉翻る風のいろ気色さびしきものを孕める

 

木のあれば露の宿りて地の上のよきことひとつ光りを放つ

 

悲しみてありける頃も時雨して庭のもみぢの朱を濡らしき

 

もの言はぬ木木らは倒し家建つる新しければ心含まず

 

わが露とひそかに愛でし草の露葉の露萩のつゆに飽かぬに

 

選ばれて光るはひとつふたつなる萩の葉暗の村雨の露

 

面影は虚空に咲くなり終りゆく細き手などをとらざりしかば

 

そのかの日現し世人のわが父が竹の雪など払ひをりしよ

 

虫が音の中に瞑りて尊厳の戻りし父は永久に声なし

 

脈打ちてをりしが止むと痙攣の再びなりき大きからざる

 

かくて永遠に色沈みゆく顔色を子なれば目守るわれら子なれば

 

いとせめて五勺の酒を飲まんとぞ可笑しく言ひき前の二日に

 

左右同じからざる浮腫にはかせやる足袋になづめど強く越えませ

 

降りそそぐ光り朝の露に輝る生家に居りぬ父の中有を

 

夜の団居せよと椅子あり椅子に凭るわが少年は戦経ざるや

 

兵といふ文字目に走る朝刊を手挟み持てり戦起こらむ

 

過ぎ来しに戦はありてそびらより音走る炎に追はれ惑ひき

 

生年を記すと書きて「昭和」とふ鎮まらぬ世も過ぎていとほし

 

見て過ぐる今日平安の絵図にして子を抱く母はありて語らふ

 

もの青む雪の朝を呼び合ひてさわがしからぬ兄といもうと

 

いくさ正に勃らむとして怖しとぞ蔵さざりしが生き得たりしや

 

野に虹のたつべき時雨といふほどに虹たちにけり空に貫きつつ

 

砲台の跡とぞ登る秋山に展けてもやふ朝の入江の

 

西東中舞鶴の入海の碧き湛へに艦を隠しき

 

かしこ鎮守府あれは海軍工廠と名のゆゆしけれ過ぎし世なれど

 

痛しいたし過ぎし昭和に人を焼く炎は降りぬわが上ならね

 

余儀なくて赴きて戦野に瞑りたる千万の目のささ波なすも

 

皇女和子戦後をひそと生きまして亡きはさぶしゑかの崩御より

 

糧尽きしいくさの果てを越えきたる人らか旅に集ひ別れぬ

 

西の日を傘に避けつつ佐保路ゆくこの秋みのる稲の傍へを

 

コスモスの細葉けぶるに雨降りて花丈人を隠す般若寺

 

海龍王寺ここと来たれる築地塀保ちて古りし土の色寂ぶ

 

空と気と水澄む秋と法師言ふ見ゆる国原宝とも言ふ

 

理願葬り終へたる坂上郎女のその裁量ぞよき

 

古き世の歌に姿のしのばるる大家命婦わが母ならず

 

幽暗に歩み入らむはわが母ぞ爆けて笑ふ声は戸外に

 

骨ばりていと軽からむ身ながらに纏ふ膚の白う清浄

 

終章の楽ゆるやかに絶えぬるを告げも敢へねどわれは安らぐ

 

戒名のゆかりの月の月光の母かと青し灯を消す闇に

 

寝ぬる夜の枕の方に月昇りはじめより世を照らす影射す

 

補陀落を指す一艘の船を置き月かげ暗き絵などありしか

 

石に寝て月光射すを引揚げの途次にて月影石とせしとか

 

人の世の渚に寄せて生れし子の立ち初むるよと囃されて立つ

 

かかる小さき足にて立つと愛しみし言葉遙けし彼の岸の母

 

在るによりて負へる咎とぞ身に負ひて免れざらむこのみどり児も

 

息絶えしものを負ひたる少年の不動や戦時長崎がこと

 

生ける日のさながらにして息止みしものは負はるるその兄の背に

 

亡骸の弟を焼く火の色を見ざりしや少年世を経たりしや

 

医の業に従きて為る娘を目近くに見るべくなりぬ世の移ろひに

 

去年そこに在りて失せける庭もみぢ見えぬ境に散るやくれなゐ

                       以上 歌集「高月記」より五十首

 

2001--2002 日本文藝館編輯室