ふるさとの少年

 あれは、ぼくが国民学校の一年生になって数か月後のことだから、七月か八月であったろう。そうだ、ケイトウが真っ赤に燃えていたから八月の下旬と限定してもよさそうだ。アキアカネも飛んでいたし……。

 ぼくの家は島原市の町中にあった。そんなに広くはなかったが階下に三間、階上に二間あった。裏庭には中央部に井戸があった。普段は板張りの蓋(ふた)がかけてあったから、あまり使用していなかったのかもしれない。

 その庭の一隅に、ケイトウが五、六株、群れて咲いていた。それを、はっきりと覚えている。

 父は、その庭でよく刀の素振りをしていた。断っておくが、竹刀(しない)ではなく、真剣であった。頭髪を手拭(ぬぐい)でしばり、眼光も鋭く、裂帛(れっぱく)の気合が口から発せられた。

 父は研(とぎ)師で、小さいながらも店を張っていた。刀を研ぐかたわら、売買もしていた。人が好くて商人には向いていなかったが、時代柄、何とか家族四人は食べていけたのであった。ぜいたくをしようにもできない昭和十九年のことだから、貧乏と仲良くして、肩を寄せ合って生きていたのである。

 四つ違いの妹がいたが、まだ二歳で遊び相手にもならなかったから、ぼくはいつも漫画本を読んでいた。そうでないときは、近所の日本舞踊のお師匠さんの家へ遊びに行った。ぼんやりと踊りのけいこをしているお姉さんたちの動きを縁先から眺め、時を忘れた。何度もかけられるレコードは「野崎小唄」で、すぐに暗記してしまった。

 

   野崎詣(まいり)は屋形船でまいろう

   どこを向いても

   菜の花ざかり

   粋な日傘に

   蝶々がとまる

   呼んでみようか

   土手のひと

 

 踊り手は近所の子どもからおとなまで、さまざまであった。手をかざしたり、体を反転させたり、足を擦(す)って床を移動したりするのを、あかず眺めていた。裾(すそ)から覗(のぞ)いている紅い蹴(け)出しの色も鮮やかに覚えている。庭のケイトウの花といい、この蹴出しといい、ぼくにはどぎつすぎて、胸がつかえるような不安感に襲われるのだったが……。

 踊り手の中に化粧品店兼薬局の礼子お姉さんがいた。年は十九歳とかで、来春にも結婚するらしいという噂(うわさ)であった。細面の色白で、鼻梁が通り、意思の強さをうかがわせる引き締まった唇の持ち主で、ぼくの心を捉(とら)えて離さなかった。

――あんな素敵なお姉さんがほしい。

口に出しはしなかったが、心の中では切に望んでいた。しかし、それをさとられるのは死ぬほどに恥ずかしいことであった。だから、あまり真剣に熱いまなざしで見つめるのは、避けなければならなかった。それなのに、ぼくは通りを行く人に視線を泳がせてもすぐにお姉さんの舞い姿にもどしたし、手にしていた漫画本に目を落としても、それは長くは続かなかったのだ。

お姉さんは踊り終えて一息つくと、ぼくを見て優しく笑いかけてくれた。目が涼やかに澄んでいて、ぼくは引き込まれてしまいそうだ。

「清ちゃんは、本当に踊りが好きなのね。毎日、縁側に上がり込んで……」

いつも、お姉さんの言う台詞(せりふ)は決まっていた。そして、ぼくも、決まったようにうなずくのだった。たまには、お姉さんのために出されたおせんべいや乾パンを、お姉さんは、

「清ちゃんにも、おすそわけ」

と、分けてくれたりした。

お師匠さんは五十近い、無表情な女性(ひと)だったが、ぼくたち見物人を追い立てたりはしなかった。しかし、好意を抱いているわけではないらしく、声をかけてくれたりはしなかった。だが、ぼくにとっては、それで十分であった。ぼくは、礼子お姉さんの姿や顔を見られるだけで、このうえもなく幸せだったのだから。

 

       ○

 

 母は礼子お姉さんとは異なり、化粧もしない地味な性格であった。口数も少なく、社交家ではなかった。どちらかというと控えめな田舎(いなか)者だった。百姓の娘で、学歴もなかったから、でしゃばるということがなかった。当時、母は二十七歳であった。

 父は五歳年上だから三十二歳であった。父も百姓の出で、七人兄弟の末っ子であった。百姓を嫌った父は家を出て、刀剣の研師となり、一家を構えたのである。

 昭和十九年も秋になると、日本は負け戦の様相を呈し始めてきた。いくら大本営発表が、「敵機五機を撃墜し……」と報じたところで、もう島原の人たちも信じてはいなかった。父の友人知人にも、次々と召集令状が舞い込んだ。父より年上の人も招集された。なかには四十半ばの男性にまで赤紙が舞い込んだ、と父母の会話の端にのぼっていた。

「あすは我が身たい」

 父は真剣な面持ちで、母に語っていた。おそらく夕飯のときか、団欒(らん)のひとときであったろう。母は返事もできず、ただ青ざめていた――。両親は、おそらく生きた心地がしなかったろう。毎日毎日、「赤紙」の恐怖におびえていたに違いない。

 それなのに、父の心労を弄(もてあそ)ぶかのように「赤紙」は舞い込んではこなかった。

      

       ○

 

 ぼくの家の隣に「森岳堂」という菓子屋があった。さほど大きくはなかったが、間口はぼくの家と同じく三間ぐらいはあったろう。島原の銘菓はカステラとザボン漬けであった。もちろん、ほかにも何種類かの菓子類を売ってはいたのだろうが、当時のことだから、品数も限られていたはずだ。砂糖、卵をはじめ、小麦粉、小豆なども容易には入手できなかったに違いない。いずれにしても、ぼくは小さかったし、はっきりした認識はないのだ。乾パンをご馳走と思い込んでいたのだから、豪華な菓子類は知る由もなかった。

 その森岳堂に、東京の大学を中退してきた進さんがいた。大学では空手をやっていたという。当時、二十歳ぐらいであったろうか。たまに店番をしていたが、そんなときも書物に目を通していた。

 ぼくが遊びに行くと、骨の張った顔を上げて、

「清ちゃんは、何が楽しくて生きてるんだい?」

 と、尋ねたりした。真剣な表情であった。ぼくは困惑した。そして、思案の末、

「礼子お姉ちゃんの踊りを見るのが好きたい」

 と、答えたりした。国民学校一年生には、まだ生きる目的も哲学も思想も関係なかったのだ。学校へ行っても、避難訓練や行進の練習ばかりで楽しくなかった。先生は、

「いまに神風が吹いて、我が軍は大勝利をおさめる」

「日本は、いまだに戦に負けたことはない」

 などと威張っていた。

進さんみたいに、「何が楽しいのか」なんて質問は受けたことがない。その進さんが、

「そうか、清ちゃんも礼子さんが好きなのか」

 と、白い歯を見せて笑った。笑うと、進さんも童顔になった。ぼくは、進さんも礼子お姉さんが好きなんだな、と気づいた。

 その進さんは警察にマークされていた。父の話によると、「アカかぶれで、退校させられた」とかいうことだった。

「アカって、なに?」

問い返しても、父は教えてはくれず、このことは、だれにも言っちゃいかんとぞ」

 と、厳しい表情で口止めした。そして、

「そんじゃなかと、清一もカンゴク行きになっとぞ」

 と、脅した。さらに、手錠をかけられて、竹刀で殴られ、木刀で足腰を打たれ、食事も満足にたべさせてもらえない、と付け加えた。

「怖かねぇ」

 ぼくが怯(おび)えていると、父は、

「ほんとに怖かぁ。南無阿彌陀仏……なむあみ……」

 と両手を合わせて祈った。ぼくも真似(まね)して手をあわせた。それを見た父は、

「よか。これでよかたい。お釈迦さんが清一を救ってくださったと」

 と、納得したように大きく二、三度うなずいた。ぼくは、救われた思いがして、決して進さんがアカだなんてことは口走るまい、と決心した。

 だから、ぼくは進さんに会っても、絶対に「アカ」の話はしなかった。知らぬふりをして、子どもっぽく自分を演じた。おとなを騙(だま)すのはわけもなかった。おとなは、子どもは純心だ、と一方的に信じ込んでいる面があった。進さんも父も、その点は似ていて、おかしかった。

 

       ○

 

 あるとき、ぼくは進さんに連れられて散歩に出た。きっと日曜日だったのだろう。

商店街を通って大手広場に出、警察の前を通って、裁判所のある坂道を上り、森岳城址(もりたけじょうし)に辿(たど)り着いた。昔は七万石のお城であった。

 途中、進さんはご機嫌であった。空には秋の深い青空が広がっていたし、風も頬(ほほ)に優しい微風であった。ぼくの心も弾んでいた。なぜなら、父も母も、滅多にぼくを散歩になど誘ってくれなかったから……。

 本丸跡には枯れ草がのびていた。そこからは島原の市街が眼下に見おろせた。高い建物もなく、みんな平屋か二階建てである。お堀を取り巻く道路も小さく見えた。右手には眉山が見えた。 六〇〇メートル余りの山だが、ぼくには見上げるような高山に見えた。その眉山が、島原の市街を威圧するようにそびえているのが誇らしくて嬉しかった。 見慣れた角度と違って、新しい山に見えるのは大発見であった。

 左手に視線を移すと、有明海が波もなく、鏡のように静かに広がっていた。小さな船影が一つ見えた。まるで動いていないかのように――。

 本丸跡は高台になっている。風を遮(さえぎ)るものは何もない。だから、ちょっと強い風が吹くと息苦しさを覚える。でも、そんな強い風は滅多に吹かないから心地よかった。

 進さんと僕は、手ごろな石に腰を下ろした。

「島原も、こうして眺めると広かたい」

 進さんは、まばゆいのか目を細めた。横から眺めると、進さんの顔は陰影に富んでいて、彫りが深かった。

 そのとき、背後に足音がした。ぼくが振り向くより早く、進さんが立ち上がっていた。

 足音の主は、礼子お姉さんだった。

「お待ちになって?」

 礼子お姉さんの澄んだ声がした。ちょっと甘くはにかんだ、優しさに溢(あふ)れた声だった。

 紺のモンペ姿の礼子お姉さんは、うっすらと化粧をしていて、いつもより美しかった。

「いや、ついさっき来たばかりです」 

 進さんは、島原弁でなく、標準語で答えた。ぼくは違和感を覚えたが、同時に東京に住んだことのある人のことばに羨望(せんぼう)の念も抱いた。

 そんなことよりも、ぼくが心の底から驚いたのは、進さんと礼子お姉さんが、「城跡で待ち合わせをした」という事実についてであった。二人はすでに、この日の出会いを約束していたのであった。ちょっと裏切られた気もしたが、

「清ちゃん、お腹すいたでしょ」

 と、笑顔を向けられ、サツマイモのふかしたのを手提(さ)げの中から取り出されると、もう、ぼくの機嫌はなおっていた。

 三人は、風呂敷の上に座ってサツマイモをほおばり、水筒の麦茶に舌鼓を打って、わずかばかりの時間を共有した。

 わずかばかりというのは、その直後、荒々しい靴音がして、楽しい時を破られたからである。いかめしい格好(かっこう)をした警官が一人やってきて、

「この非常時に、おまえらは何ばしちょっとか!」

 と、どなった。

 鼻ひげをはやした四十歳前後の谷口という警官であった。いかにも癇(かん)性な持ち主らしく、額に青筋を立てていた。時々、父に進さんの様子を聞きにくる男であった。ぼくは、ちぢこまってしまった。

 進さんは立ち上がると、

「また、跡をつけてたんですか」

 と、情けなさそうな目で警官を見やった。

「だまれ、非国民! 一億一心、火の玉となって戦ちょるとき、てめぇらは乳操りあうつもりか」

「失敬な!」

「貴様、本官に楯(たて)つく気か」

 言い終わらないうちに、警官の平手は進さんの左頬(ほほ)に飛んでいた。

「あっ!」

 進さんは短く叫んだ。と同時に、進さんの鼻腔(こう)から鮮血がにじんだ。進さんは、そのままの姿で警官を睨(にら)んだ。

「何だ、その目は!」

 警官は眉を吊り上げて、手にしたサーベルの柄(え)で進さんの鳩尾(みぞおち)を力いっぱい突いた。

「うっ!」

 進さんは、胸をおさえて蹲(うずくま)った。顔を紅潮させた警官は、今度は進さんの頭部と左肩にサーベルの鞘(さや)を打ちおろした。進さんの肩の骨が折れたらしく鈍い音がした。僕の耳にも、はっきり聞こえた。進さんは、顔面から、ゆっくりと頽(くずお)れた。それっきり、進さんは動かなかった。礼子さんは、顔を覆って泣いていた。

 

       ○

 

 進さんは頭と鎖骨の治療のため、一か月ほど入院した。

 ぼくは母に連れられて、一度だけ見舞いに行った。進さんは、頭と左肩を包帯でくるくる巻きにされてベッドに横たわっていた。進さんは唇を歪めて、少し笑った。が、反応はそれだけだった。

 ぼくも、いつものようには声が出なくて困った。そんな自分が腹立たしかった。警官の殴打事件が、ぼくの内部で大きな衝撃となってくすぶり続けていた。それは進さんも同じであったに違いない。

 やがて、進さんは退院した。しかし、進さんは以前とは完全に別人であった。目には力がなく焦点も定まらず、変なことを口走っては、意味もなく笑った。犬を褌(ふんどし)一つで追いかけ、町内を一周したこともあった。

「頭の打ち所が悪かったとばい、きっと」

「かわいそかねぇ。まだ若かったい」

 父母は、小声で進さんの噂(うわさ)話をした。

 噂は、すぐに近所に流れた。そしてまた新たな噂が広まった。

「礼子さんとの結婚も、なくなったごたる」

「神も仏もなかねぇ」

 ぼくは進さんに会いたかったが、両親に止められた。

「進さんに噛(か)みつかれたり、首を締められたりしたら、困ろうもん」

「今の進さんは、狂っとるけんね」

 言われるまでもなく、ぼくも怖かった。進さんは怕(こわ)かったが、礼子お姉さんには会いたかった。

 だから、礼子お姉さんの踊りをみようと稽古(けいこ)場を覗(のぞ)いてみた。しかし、礼子お姉さんの姿はなかった。 踊りのお師匠さんが、例によって無表情な顔で、

「礼子さんは、踊りをやめんしゃったよ」

 と、教えてくれた。非情なことばであった。信じられなかった。だけどぼくは、はっきりと受け止めていた。体じゅうの力が急にしぼんで、心が虚(うつ)ろになった。

 ――もう、稽古場では会えんとやろかい?

 心の中でつぶやきながら、重い足を引きずって家へ帰った。すると、店先で父が蒼白(そうはく)になって赤紙を睨(にら)んでいた。赤紙を持つ手が小刻みに震えていた。

「とうとう、来たばい……とうとう」

 泣き出しそうな父の声がした。

       

       ○

 

 昭和十九年十一月一日に、父は町内の人たちが打ち振る日の丸の小旗に送られて島原の家を後にした。

父は国民服に軍帽をかぶり、右肩から襷(たすき)を斜めに掛けていた。そこには「祝出征 桜井英雄」と朱墨と黒墨で書かれていた。

 大勢の町内や隣組の人たちを前にして父は挙手の礼をして、

「桜井英雄、皇国のため、粉骨砕身……」

 と、大きな声で言った。そこには、おどおどした態度はなかった。腹がすわっているように見えた。一応、大村の部隊へ向かうらしかった。

 家の前の大きな幟(のぼり)にも、「祝出征 桜井英雄君」と大書されていて、風にはためいていた。

「ばんざーい!」

「ばんざーい!」

 歓呼の声があがった。父は姿勢を改めて正すと、もう一度挙手を返した。

 ぼくは、傍らの母のモンペにすがりついていた。母は、ぼくの手をしっかり握りしめていた。痛いほどの力であったが、ぼくは振りほどけなかった。母は血の気をなくして、怖い表情で父を見つめていたからである。

 そのとき、ぼくは、人垣の後ろで控えめに見送りに来ていた礼子お姉さんの姿を目にした。ひっつめ髪に、細面の色白な顔が際立っていた。いつもと違って、礼子お姉さんの表情は沈んで見えた。

 ――母ちゃんも礼子お姉さんも、どぎゃんしたとね?

 ぼくは、父や町内の人たちの晴れやかさの中で、二人の女性に違和感を抱いていた。

 それでも、ぼくは礼子お姉さんの顔を目にすることができて、心は躍っていた。

 ――病気ではなかったんだ!

 そういう感情が、ぼくの心を落ちつかせた。

 礼子お姉さんの家は、ぼくの家から二〇メートルほどしか離れていない。いわば、同じ町内なのだ。通りに面した五間ほどがお店になっていて、奥と二階が住まいになっていた。

礼子お姉さんは次女で、末っ子である。

 ――進さんは?

 ぼくは気になって進さんの姿を捜した。しかし、礼子お姉さんのそばにも、人込みの中にも、進さんの姿は見出(いだ)せなかった。その代わり、ちょっと離れた電柱の陰に谷口という鼻ひげの警官が立っているのに気づいた。進さんを骨折させた非道な警官である。腰にぶらさげたサーベルが陽光に映えていた。ぼくは、母の傍らから睨みつけてやった。

 その前夜のことであった。隣の進さんが、十時すぎに、僕の家にやってきた。進さんは裸ではなく、きちんと洋服を身につけていた。

 深刻な表情を浮かべた進さんは、丸刈りになった父に向かって正座し、挨拶(あいさつ)した。それから、

「日本は負け戦だっていうのに、まだ応戦する気でいます……。戦死者が増えるだけなのに……。先日の十日、那覇市は市街の九〇パーセントを焼失しています。死傷者は八百人に近いそうです。物量作戦の連合軍相手では、とても勝ちめはありません。もう、こうなったら、一日も早く降伏することです。被害が小さいうちに……。でも、日本の軍部は降伏を恥と考えていますから、容易なことでは……」

 と、悲しそうに首を振った。父は何とも答えられず、ただうなずいていた。

 進さんは一呼吸おいてから居ずまいを正して、再び口を開いた。

「おじさん、こうなった以上、仕方ありませんので、極力、生き延びてください。そのうち戦いは終わります。日本の大敗で――。それまで、どんな屈辱を受けても、奥さんと清ちゃん、純ちゃんのために、必ず生き抜いてください」

「捕虜になってもよかけん、死ぬなってか」

「そうです。連合軍は情け深いそうですから、捕虜を殺したりはしないでしょう」

「鬼畜米英が情け深かと?」

 父は、首を傾(かし)げて腕組みをした。

 母が日本酒を茶碗に注いで、進さんと父に差し出した。進さんは茶碗を目の高さに掲げて、「無事なご帰還を祈って!」

と言い、一気に飲み干した。

 父も、つられて一息に飲み、少しむせた。息を整えた父は、座りなおすと、真正面から進さんを見すえて、こう言った。

「なんしろ、留守の間は、よろしく頼みますばい」

 それに対して、進さんは、

「私にできることは、何でん、しますばい」

と、島原弁で答えた。

 ……この前夜の訪問が、進さんの「見送り」だったのだろう。だから、父の出征当日は顔を見せなかったのだ。谷口という警官の目も光っていたし、進さんの判断は正しかったといえよう。

 

 進さんは、父が納得してくれたものと考えたらしく、実に晴れ晴れとした、さわやかな表情で帰っていった。

 しかし、父は何も分かっていなかったのである。進さんの姿が見えなくなると、一つ大きく舌打ちをして、

「連合軍が情け深かって? すすんで降伏しろって? 捕虜になっても生き延びろってか? やっぱ、進さんはおかしか!」

 と、右手で自分の頭部近くに二、三度渦巻きを描いてみせた。

 母は苦笑に紛らして、涙を拭(ふ)いていた。

 

       ○

 

 父に、「留守の間はよろしく」と頼まれた進さんだったが、父が招集されていった三日後、ご両親に手足を縛られた進さんは、精神病院のオンボロ自動車に放り込まれて、入院させられてしまった。みんなが寝静まった夜半のことらしかった。もちろん、ぼくは見ていないが、噂では、「進さんは、相当暴れなはった」と、いうことであった。

 ぼくは、学校へ行っても落ち着かなかった。授業中も作業中も、もちろん休み時間だって上の空だった。頭の中は進さんのことで、いっぱいだった。

 ――あの、やさしかった進兄さんが?

 信じられないことだった。まして、父が召集される日の前夜、父と会話を交わしていた進さんからは、異常さは何も感じ取れなかった。進さんは、本当に心の底から父のことを心配して訪れてきたと、ぼくは信じていた。しかし、父のことばは、「やっぱ、進さんはおかしか!」というものであった。だが、進さんの弁舌には心がこもっていたと、ぼくは進さんの真剣な表情と共に忘れ難いのである。

 思案の末、ぼくは学校が終わると、礼子お姉さんの家へ行ってみよう、と決意した。すると気が軽くなって、胸のつかえが取れたようであった。

 学校からぼくの家までは、子どもの足でゆっくり歩いても五分もあれば行き着く。礼子お姉さんの家は「伊藤薬局」という屋号のお店である。「伊藤薬局」は僕の家を通り越して二〇メートルほど先にあるのだが、ぼくは家を素通りし、ランドセルを背にしたまま直行した。一刻も早く礼子お姉さんに会いたかったからだ。

 ぼくは学帽を目深にかぶり、ガラス戸をこじ開けた。そして、

「ごめんくださーい」

 と、声を張り上げた。気後れしたら、店内へ入っていけなくなりそうな気がしたからである。

「あら、清ちゃん」 

 いきなり、礼子お姉さんの声がした。店の奥から礼子お姉さんが、笑顔を浮かべて歩み寄ってきたのだ。

 ぼくは駆け寄った。お姉さんは、優しく受け止めてくれた。ぼくは緊張の糸が切れたのか、声を出して泣いた。

「進お兄ちゃんが……進お兄ちゃんが……」

 それだけで、僕の言いたいこと、悲しみを、礼子お姉さんは理解してくれたらしく、

「心配しなくていいのよ。すぐに帰ってみえるわよ、進さん……」

 と、しゃがみ込(こ)み、ぼくの涙を白魚のような綺麗(きれい)な指で拭(ふ)いてくれた。お姉さんの甘い優しい香りが漂い、僕はいつまでもそのまままの状態でいたかった。

「清ちゃんは男の児(こ)でしょ。泣いたら、みっともなかよ」

 礼子お姉さんは、ぼくの乱れた帽子を深々とかぶせ直すと、特別サービスの笑顔を見せて、ぼくのを頬(ほお)を軽くつついた。

 

       ○

 

 父が出征したので、母は気落ちした。数日は店を閉めて、座敷に座ったままで、ろくに口も利かなかった。それでも、二歳になる妹は母にまとわりついて離れなかった。

 そんな情景を、僕は寂しい思いで、ただ黙って見ていた。

 ――父ちゃんがいなくなるということは……。

 こんなにも母やぼくの心を暗くするなんて、今の今まで知らなかった。進さんが精神病院に入院したことも悲しかったが、父がいないという時間の空白の切なさは、母の打ち沈んだ姿を目(ま)の当たりにするだけに、よけい辛(つら)かった。

 そうかといって、母に甘えて悲しみをいやすのは、男の沽券(こけん)にかかわることだった。礼子お姉さんには甘えられても、母には甘えられなかった。なぜなら、ぼくの切なさよりも、母のそれの方がまさっているだろうと、ぼくはぼくなりに、子ども心を働かせていたからだ。もちろん、礼子お姉さんに、「男の児(こ)は泣かないのよ」と、発破をかけられたのも影響していた。

 ――そうだ、ぼくは桜井家の跡取りなのだ!

 ぼくは、自分の心に言い聞かせた。少しでも母に勇気を与えたかったし、生きる希望をもって欲しかったからである。これで母が発狂したり井戸に身を投げたりしたら、ぼくはみなし児になってしまう。そうなったら、妹の純子を抱えて、どうしたらいいのだろう。そんな不安が、僕の心を捉(とら)えたのだ。

 しかし、ぼくにできることは何もなかった。刀は研げないし、母を慰める会話も投げかけてやれなかった。ぼくは考えた末、母に甘えないことにした。わがままも言わないことにした。買い物も積極的に手伝うことにした。そして、お店の掃除、部屋の掃除も――。

 寂しさを忘れるには、体を動かすことが最上の手段であった。それに、ぼくは父と約束を交わしていたのだ。

 あの夜、進さんが帰った後で、父は茶碗酒を傾けながら、ぼくにこう言ったのである。

「進さんには悪かばってん、おいも立派な日本男子たい。後ろ指ばさされたるごたっこつはせんばい。なあ、清一!」 

 ぼくは、うなずかざるをえなかった。

「そこでだ……」

 父はぼくの目を見て言った。

「おいは出征するにあたり、清一と、男と男の約束ば交わしたか!」

「男と男の……約束?」

そぎゃんたい。清一も、もう国民学校の一年生じゃなかか。立派なおとなばい」

「うん。男同士の約束だね」

 父におだてられたぼくは、そう答えていた。父にしてみれば、ぼくみたいな子どもでも頼りにせざるをえなかったのだろう。

「そうだ。これは男としての、おいの頼みばい」

 父は、そこで少し表情を崩し、一杯飲むか、と訊(き)いた。ぼくは、大きくうなずいた。父は、自分の茶碗酒を飲み干すと、その茶碗をぼくに差し出した。ぼくは受け取った。父は一升瓶を傾けて、ぼくの手にした茶碗に日本酒をなみなみと注いでくれた。ぼくは零(こぼ)さないように、ゆっくりとした動作で口元に運び、少しだけ飲み込んだ。喉(のど)が灼(や)けるように熱くなり、続いて小さく噎(む)せた。その拍子にお酒が少し零れてしまった。

「これで、清一も一人前の男たい。うれしかねぇ!」

 父は目をしばたたいて、ぼくを見た。そして、

「おいは、悔いなく、後は清一に任すったい。万が一のときは、母さんを助けて、桜井家を守っていってくれよな」

 と、続けた。やはり、父は死を覚悟しているらしかった。ぼくは、父のことばに素直に、

「うん。男と男の約束たい」

 と、うなずいていた。

 このときの父との約束を忘れていたわけではなかったが、礼子お姉さんが、先日、「清ちゃんは男の児(こ)でしょ。泣いたらみっともなかよ」と励ましてくれたときは、心の底から恥ずかしかった。父との約束を、すぐ思い出したからであった。礼子お姉さんは、父との「男の約束」を知っていたのだろうか?

 

       ○

 

 母は一週間ほどふさぎ込んでいたが、やがて悲しみを振り切ったかのように元気を取りもどした。

そして、母がした最初の仕事は店の改装だった。父の研師の場所を整理し片付けると、刀剣類の売り場をせばめ、店の三分の二ほどに本棚を設(しつら)え、古本屋を始めたのである。当時は紙不足のせいもあって戦時下で、なかなか新刊本は出版されなかった。人々は活字に飢えていたから、素人商売でも何とかなったようであった。

 母の表情が穏やかになってくるのを目にするのは、このうえもなく嬉(うれ)しかった。もちろん、母は店番で忙しかったので、僕は買い物や、その他の使い走りで活躍した配給物の米や卵、お酒なども、ぼくが母の代理でこなした。

「助かっと。清ちゃんがいてくれて――。お母さん、心強かよ」

 母は、時おり、そう言って笑いかけてくれた。素朴な母の笑みの中に、ぼくは深いやすらぎを覚え、父との約束が少しでも果たされていきつつある喜びに浸っていた。それは、頼りにされるものしか分からない満足感であった。

 

 父がマレー半島に出兵させられたのは、十二月に入ってまもない五日であった。

母は、父が召集されて以来、毎日、陰膳(かげぜん)を供えて、父の無事を祈っていた。目を閉じて、両手を合わせて、長い間、陰膳と無言の対話を交わしていた。僕も真似て手を合わせるときもあったが、母は何も言わなかった。

 ぼくは父に、「男の約束を果たしているけんね」と、報告した。父は、「偉かね。頼もしかたい!」と、ほめてくれた。

 こうして、僕は悲しみの中で、ほんの少しだけおとなになったのである。

 

       ○

 

 戦地の父からは、一度、簡単なはがきがきたきりで、昭和十九年は暮れようとしていた。

 はがきには、「自分は無事、日々を送っている。心配しないように。みんなも、体を大事にして、銃後を守ってください。」というようなことが書かれてあった。何か、もっと大事な文面が記されていてもよさそうなものなのに……と、僕は物足りなかった。

 それでも母は、押しいただいて、陰膳の傍らに置き、朝夕、手にして眺めていた。それだけで、母の気持ちはおさまるらしく、実に晴れ晴れとしていた。きっと、母は父と二人だけに通じる秘密の会話を交わしていたにちがいない。ぼくは少しだが嫉妬(しっと)した。

 だから、ぼくも父に報告した。「ぼくも母ちゃんも、元気だよ。安心してよかよ」と。もちろん、「早く戦争に勝って、帰ってきてください。土産をたくさん持ってね」と、頼み事をするのも忘れなかった。

 父は、そのつど、「分かった、分かった」と、朗らかに応じてくれた。

 

 母は、暮れを控えてあわただしい日々を送り迎えしていた。父が無事だと分かって、母はうれしそうだった。そんな母をながめているぼくも、心が和んでくるのだった。

 そんなある夜、母が、どこからか噂話を聞き込んできた。

「驚いたねぇ。ほんなこつ、驚いた」

 お茶をいれながら、母は、目を丸くして、口を開いた。

「どぎゃんしたと?」

 僕が訊(き)くと、母は、

「伊藤屋の礼子さんに、あの鼻ひげの警官が、結婚を申し込まっしゃったとよ」

 と言って、着物の上から、自分の胸をおさえた。相当、驚いている様子だった。

「礼子お姉さんは、進さんが好きじゃろもん」

 僕は反抗した。信じられなかった。

「そぎゃんたい。それを承知で、申し込んだったい。強引かねぇ」

 語尾を尻上がりに言って、母は顔を歪(ゆが)めた。

「断ればよかろうもん、礼子お姉さん」

「そうたい。一度は断ったったい。ばってん、あの男はしつこか。また、申し込んだったい」

「奥さんは死なしたと?」

「いいや、しょてから独身だったんよ。来手がなかったんだろうね、嫌われ者(もん)だったけん」

 母は、そこでもう一度、渋面をつくって見せた。僕は気になって、口にした。

「進さんが知ったら、怒らすばい、きっと」

「そうなったら、下手すると、血の雨が降るたい」

「でも、進さんは鉄格子のある精神病院の中じゃけん、そんなことはできんじゃろうもん」

「それもそうたい」

 母は、やっと納得して落ちついたようだった。

 ――ああ、それにしても!

 ぼくは内心、その憎い警官に毒づいていた。「二十も年がちがうのに、何ば考えちょっとか。礼子お姉さんは、おまえのような野蛮な男は大嫌いなんだよ。分をわきまえろってんだ」

 ぼくは、大好きな礼子お姉さんを、あんな男に横取りされるぐらいなら、あいつを殺してもよい、と考えた。礼子お姉さんだって嫌っているではないかと、自分の気持ちを正当化させた。礼子お姉さんの白い、それこそ透き通るほどの白い肌を、あんな日焼けした汚らしい中年男の自由にさせてなるものかと、ぼくは憤った。

 憤りが通り過ぎると、今度は悲しくなった。この世の非情さが、少年のぼくにも徐々に分かってきたからである。学校の男先生は金持ちの子を贔屓(ひいき)するし、かわいい女生徒には異常に優しくする。おとなって、みんなまともじゃない。ぼくは、この世の不条理を、兵隊に父をとられたことを契機に、いやというほど知らされたのである。その一つが、今回の「鼻ひげ警官のプロポーズ事件」であった。

 ――身のほども知らないで!

 ぼくは進さんの代わりに、多いに怒った。と同時に、礼子お姉さんに心からの拍手を送ったのだった。見事に振った礼子お姉さんは、さすがに立派であった。ぼくは、ますます礼子お姉さんが好きになった。

 ――何度、申し込まれても、断って!

 ぼくは、進さんのためにも、心の中で、そう祈ったのだった。

 

        ○

 

 十二月の三十一日の夜、つまり大晦日(みそか)に、進お兄さんが、ひょっこり、ぼくの家(うち)に姿を見せた。

 母もぼくもびっくりしたが、幽霊ではなかった。ちゃんと二本の足がついていた。

 進さんは、ぼくたちを前にして、

「正月なんで、一時帰宅なんですよ」

 と、苦笑した。

 その笑顔は、昔の進さんそのもので、翳(かげ)りがなかった。少し顔に肉がついたのか、幾分ふっくらとして見えた。

進さんは、母に招じ入れられて座敷に上がると、

「おじさんから、便りはありますか?」

 と、訊いた。母は、お茶を用意しながら、

「一度だけばってん、はがきが……」

 と、笑顔を向けた。

「それはよかった。何よりです……もう少しの辛抱です。がまんして、がんばってください」

「はい」

「必ず、近いうちに戦争は終わります。希望をもちましょう」

「………」

「ところで、今夜は、お願いがあって参上いたしました」

「何ねぇ、いったい」

 母はお茶を差し出しながら、進さんの顔を怪訝(けげん)そうに見た。

「いやあ……」

 進さんは、照れて頭を掻(か)いた。それから進さんは、真面目(まじめ)な顔になり、

「……実は、この正月二日に、結婚式を挙げたいと思いまして……」

 と、言った。

「礼子さんと……」

 母が身を乗り出して訊いた。ぼくも、驚いた。

「まあ、そういうわけです」

 進さんは、相好を崩した。母は居ずまいを正すと、

「それは何よりで……おめでとうございます」

 と、深々と頭を垂れた。もう、母の頭は畳に届きそうなほどであった。母は、うれしかったのだと、僕は見てとった。

「それで、二日の夜、前の国光屋旅館で披露宴を……と、考えています。ぜひ、おばさんも清ちゃんも、出席してください」

 進さんは、母とぼくとを交互に見ながら、笑顔を振りまいた。

 ぼくは、そんな進さんの喜びを目にして、わがことのようにうれしかった。

 ――これで、あの鼻ひげの男は礼子さんを諦(あきら)めるったい!

 ぼくは、胸の奥底から、愉快になった。

「うわっ、うれしかねぇ」

 ぼくは、進お兄さんに飛びついて、声をあげて泣いた。

 進さんは、びっくりしたらしく、「おいおい、清ちゃん、どうした?」と、目を白黒させていたが、ぼくは、

「うれしか、うれしか!」

 と、進さんに抱きついて離れなかった。

 その夜、母はぼくに、

「進さんは、頭ん、よかねぇ」

 と、感極まったような声で言った。

「なしてね?」

「谷口巡査の機先を制しようって腹よ。それには、この正月休みしか自由になる時はなかじゃろが!」

「ほんなこつ。そぎゃんこつか!」

「そうたい。そぎゃんこったい!」 母とぼくは、進さんと礼子お姉さんのために、心の底から祝福した。

 

       ○

 

 昭和二十年の元旦は静かに明けた。戦争が起きているとは信じられないほど島原の市街はどかで、商店街には日の丸が掲げられ、門松の緑が目を引いた。

 僕の家も商店街にあったので、進さんちの森岳堂や国光屋旅館と同じに、旗と門松が飾られた。父が出征して留守であっても、こうした町内のつきあいは欠かせない行事の一つであった。ぼくは、まだ暗いうちに何度も表に出て、それを確認した。

 進さんから、昨日の大晦日の夕べ、ぼくは、

「明日、朝日を拝みに行かんね。ついでに猛島神社に詣でてもよかたい」

 と、誘われていたのだった。

 進さんは夏目漱石の『草枕』を棚から手に取り、出だしの部分に目を落としていた。店には母とぼくがいた。母は、

「迷惑じゃなかとですか」

 と、遠慮がちに訊いた。進さんは母に視線を移動させると、

「何で、迷惑なもんですか。一人で行くのはいやですから。清ちゃんが同行してくれると大助かりなんですよ」

 と、笑顔を浮かべた。

「そうですとね。では、よろしくお願いしますばい」 

 母も笑顔をつくった。久しぶりに見る母の笑顔であった。礼子お姉さんには及ばないが、母の笑顔も美しかった。どことなく品があって、輝いていた。母が店番をするようになって変わった点は、この笑顔であった。口数の少なさを、笑顔でカバーしようとしていたのだろうか?

 その日は、進さんは『草枕』を買い求めて帰った。帰り際に、進さんはぼくに、

「明朝四時に迎えにくるからね」

 と、言った。ぼくは大きくうなずいて見せたのだった……。

 

 冬の四時は、まだ暗い。それでも真の闇(やみ)というほどではない。所々には、薄明かりの

街灯が申しわけ程度に灯(とも)っていた。

 ぼくはセーターを二枚も重ねて着て、マフラーを首に巻き、さらにオーバーを身につけていた。母が、いやがるぼくに、無理に厚着をさせたのである。

 進さんはセーターにズボン姿で、セーターの上に無造作に半纏(はんてん)をはおっていた。首には、長い茶色の毛糸のマフラーを巻いていた。

 ――礼子お姉さんからのプレゼントばい。

 ぼくはすぐに気がついたが、黙っていた。「男は女と違って、口の軽いのは嫌われる。人に信用されない」と、いつか父が教えてくれたのを、ぼくは覚えていたからだ。

「おめでとう」

「おめでとうございます」

 進さんとぼくは、短いあいさつを交わすと歩き始めた。

 島原の商店街は、まだ眠っていた。元旦の朝は、どこも店を明けないが、それにしても森閑としている。まるでゴーストタウンだ。そんな中に、進さんとぼくの足音だけが谺(こだま)した。だれかがついてくるような気がして振り返ってみたが、黒い人影らしいものは見られなかった。

 中堀町の商店街を出ると大手広場である。ここには警察署と市役所が、睨(にら)みあうようにして、東西に立っている。広場を横切って県道に出る。県道を左に折れてしばらく歩く。

「今年は、よい年にしたいなあ」

 進さんが、つぶやくように言った。

「あしたは結婚式だし、よか年になるばい」

 僕は、弾んだ声で答えた。

「そうだよな。そうでないと、結婚の意味がないものね」

 そんなことを語り合いながら、宮ノ丁の交差点を右に折れた。あとは猛島神社までは一本道である。

 猛島神社は、浜辺にある。もちろん、高い堤防で仕切られているから、打ち寄せてくる波の飛沫(ひまつ)に濡れる心配はない。神社の手前には蓮(はす)池が広範囲に広がっていて、民家はない。いわば、人里離れた場所に猛島神社は、威厳をもって鎮座ましましておられるのである。

その猛島神社には、四人ほどの人影があるきりであった。お賽銭(さいせん)を上げた進さんとぼくは、鈴を振り、柏手(かしわで)を打って、深々と礼をした。ぼくは心の中で、父の無事を祈った。ぼくが顔をあげると、進さんも僕を見ながらにっこりした。

「まだ、初日の出まで、少し時間があるな」

 進さんは、暗い東の空を見やり、つぶやいた。お参りをすませると、なんだか気が軽くなり、海風が身にしみた。思わず二、三度、身震いが出た。

 その拍子に、僕は、あの男の姿を見たような気がした。そう、あの鼻ひげの谷口巡査の顔を――。

 

       ○

 

 この猛島神社は七、八段ほど階段を上ったところにあった。つまり、二メートルほどの高台にある。

 社務所も、この高台にあったが、宮司さんの住居は平地にあった。住居は、松の大木に囲まれていた。高い堤防の続く海に面した側は、二メートル幅ぐらいの道路が装備されていたが、住居の左手と裏側は蓮(はす)池であった。

 その住居の前は、ちょっとした広場になっていた。住居と猛島神社とは、高低の差はあったが、向き合っていたのである。距離にして二〇メートルほどであった。

 宮司さんの住居の前の広場には火が燃えていた。焚(た)き火である。焚き火を囲んでいる人影が二、三見えた。

 少し離れた鳥居の陰にたたずんでいる男の顔は、淡い月に浮かびあがり、まるで妖気をはらんだ青鬼のように見えたり、焚き火の炎に照らされて怒気に駆られた赤鬼に見えたりした。やはり谷口巡査のようだった。角こそ生えていないが、彼の心中は鬼以上に荒れていたに違いない。なぜなら、礼子お姉さんと進お兄さんの結婚話は谷口巡査の耳にも達していただろうから――。

 進お兄さんは、目敏(めざと)く焚き火の一団を見つけると、

「清ちゃん、せっかくだからあたっていたら? 僕、ちょっと散歩してくるけん」

と、笑いかけた。月の光が青白く進さんの顔を照らしていた。

 ぼくは、うん、というように大きくうなずくと、焚き火の輪の中に加わった。

「あたらせてもらって、よかやろか」

「ああ。よかたい。風邪ひいたら、おっかちゃんが泣くけんね」

 中年の気さくなおじさんが、ぼくの頭をなでてくれた。

 体が暖まってくると人心地がついた。すると今度は、「進お兄ちゃんは、何してるんね。こんな暗かなかを散歩だなんて! やっぱ、ちょっとおかしかね」と、考えたりした。

 ――まさか、置いてけぼりなんてことはなかよね。

 見知らぬ土地で、不安だった。目の前の焚き火が、魔物の舌のように不気味に見えた。今にも、ぼくを飲み込んでしまいそうだった。強い風が吹くと、本当に顔の前まで炎がのびてきた。そのたびに、ぼくは身を捩(よじ)って抵抗した。

 そんな時間が、どれほどたったのか、ぼくにはよく分からなかった。

 背後で、

「お待ちどお」

 という進さんの声を耳にしたときは、心底ほっとした。と同時に、進さんの大きな両の手が、ぼくの肩にかかった。

 ――まるで、父さんの手のようだ。

 ぼくは心地よくて、うっとりしたまま、その幸せに酔っていた。

 

       ○

 

 一月二日の夜、国光屋旅館で、進お兄さんと礼子お姉さんの披露宴が行われた。

 ぼくも、母や妹の純子といっしょに大広間に列席した。花嫁の礼子お姉さんは角かくしがよく似合っていた。白粉(おしろい)に唇の紅が鮮やかで、引き込まれてしまいそうであった。花婿の進さんは紋付の羽織に袴(はかま)姿で、このうえなく凛々(りり)しかった。時々、見交わす笑顔が、二人の幸せを浮かびあがらせていた。

 母は傍らのぼくにささやいた。

「礼子さんの美しかこと」

「町内一の美人ばい」

 ぼくが答えると、母はすかさず、

「島原一たい」

 と、相好を崩した。

 目の前のお膳には、小鯛と、紅白の蒲鉾(かまぼこ)、それに黒豆、サトイモや昆布の煮つけなどが載せられていた。母は控えめにしていたが、ぼくは戦争中とは思えない御馳走に、目を輝かせていた。祝い酒のお銚子と杯も添えられていたが、母は手をつけなかった。もちろん、ぼくも――。純子は、母の膝の上でおとなしくしていた。色白の丸い顔に、愛らしい鼻と口がバランスよく配置されている。

 酔いが回った披露宴の客の間から、歌がもれだした。

 

   ハァ 水の都のねぇ

       白土(しらち)の湖水……

 

 俗に言う『島原七万石』の民謡であった。それを皮切りに、『黒田節』『田原坂』などが、町内会会長や副会長、青年団長らによって歌われた。総勢三十名ほどのささやかな宴が和やかに進められた。

 小一時間もしたころ、母が小声で、

「そろそろ、おいとましましょ」

 と、ぼくの手をとった。

 ぼくはもっといたかったが、母に逆らうことはできなかった。

 母は、上座の花嫁花婿に頭を下げると、座を立った。金屏風(びょうぶ)の前の華やかな二人も、軽く頭を下げた。そこには、いちだんと爽(さわ)やかな空気が漂い、戦時中の重苦しいにおいを忘れさせた。

 国光屋の玄関を出て、淡い庭灯に照らされながら通りへ向かって歩いた。もう数歩で道路に出ようとする右側に、おとなほどの背丈の陶製の狸(たぬき)が、これまた大きな徳利をぶら下げて立っている。そこまで来たとき、サーベルを身につけた黒装束の巡査が三人、足早に入ってきた。夜の石畳に靴音は不気味に響いた。

 すれ違った母は、足を止めて巡査の後ろ姿を目で追った。

「何じゃろかい? 三人もそろって」

「さぁ、分からんたい」

「いやぁだねぇ、めでたい日に……」

 母は、ちょっとなじるように言った。ぼくも妙な胸さわぎがした。しかし、そのときはまだ、自分が巻き込まれる大事件がおきたなんてことに、ぼくは全く気づいていなかったのである。

 

 荒々しく踏み込んできた三人の巡査に捕縛された進さんは、礼子お姉さんに、

「何かの勘違いだ。僕は人など殺しちゃいないよ」

と、冷静に言って微笑したそうだ。

 逮捕されたときも、進さんは何ら抵抗しなかったという。

 この話を近所の人から聞いた母は、

「どうして警察は、進さんばかりを……まるで目の敵にしちょるごたる」

 と、顔を引きつらせて、僕に言った。

「いったい、どぎゃんしたとね」

「谷口巡査が亡くなったって話なんよ。昨日の昼過ぎに、蓮池に浮いてたって……」

「自殺じゃなかと?」

 ぼくは、礼子お姉さんにふられて意気消沈している谷口巡査を脳裏の片隅に思い浮かべていた。

 ――そんなに惚れちょったのか、あいつ!

 おとなの世界の複雑さに辟易(へきえき)しながらも、僕の心はおののいていた。進さんが捕縛されたのと、谷口巡査の死とは何の関係もないように思われたが……。

 母は純子の寝顔に見入りながら、

「自殺か他殺か、まだ分からんらしかと」

 と、言った。

「で、進お兄さんが殺したって警察が?」

「そうらしかよ」

「そんなこたぁ、なか。絶対なかっ!」

 ぼくは母のことばを、全神経を込めて否定していた。

「そりゃ、母さんだって進さんを信じちょっと。 結婚しようという人が、殺人を犯すはずがなかもんね」

「そうたい。進お兄さんは、そんな馬鹿じゃなかたい」

 僕は、自分の拳(こぶし)が小刻みに震えているのを止めることができなかった。

 

 その夜、ぼくは悔しくて、なかなか寝つけなかった。興奮が尾を引いていたのだ。その興奮の中に、一つだけ気になる要素が含まれていた。

 ――あの猛島神社で、たしかに谷口巡査の顔を見たと思ったけど……。

あれは本当に現実だったのだろうか? もしかしたら、錯覚だったのでは?

 ――でも、紛れもなく本当だったとしたら!

 少なくとも、進さんは谷口巡査と行き会ったかもしれないのだ。何分だったか、何十分だったか知らないが、進さんは僕と離れて、一人で「散歩してくる」と言って、まだ明けきらない元旦の朝、堤防に沿った道を歩いていったのだった。月の光を背に浴びて――。その道筋には、谷口巡査が浮いていたという蓮池もある。

 ぼくは、そこまで考えて身震いした。怖くなった。しかし次の瞬間、ぼくは、

 ――進お兄さんは、人殺しなどできるもんか、あんなに優しい人なんだから。

 と、反論していた。

 第一、 第一、谷口巡査は大男だ。しかも剣道や柔術で体を鍛えた猛者(もさ)だ。取っ組み合いの喧嘩(けんか)になったら、とてもではないが、進さんに勝ちめはない。まして殺人だなんて、そんな非道なことができるわけがない。そう考えてくると、やっと落ち着いた。

 どちらかというと、進さんは華奢(きゃしゃ)な体である。谷口巡査に殺(や)られることはあっても、その逆は考えられなかった。現に、ぼくは去年の八月に、島原城址で谷口巡査にいいように痛めつけられ、鎖骨を折られた進さんを目撃しているのだ。頭を殴られても抵抗しなかった不甲斐(ふがい)ない進さんは、そのときの衝撃で精神に異常を来(き)たすようになったのだ。

 ――そんな弱虫の進お兄さんが殺人者だなんて……濡れ衣もいい加減にしろってんだ!

 ぼくは、やはり進さんに顔向けができないと、心の中で詫(わ)びた。すると、進さんの笑顔が瞼(まぶた)に浮かんできた。

 ――清ちゃん、ぼくは君を信じているよ。ぼくたちは兄弟みたいなもんだからな!

 そんな、おおらかな進さんの声がした。いや、説得力のある声であった。

 ――ぼくだって、進お兄さんを裏切らないよ。男と男の約束たい!

 ぼくは父だけでなく、進さんとも男同士の約束を交わしたのである。

 

        ○

 

 翌日の一月三日の午前十時ごろであった。島原警察署の中年の巡査が、僕の家(うち)へやってきて、元旦の朝の進お兄さんの行動を、僕に質問した。

 特に、帰ってくるまで、ずっといっしょだったか、少しでも離れたりはしなかったか、と執拗(しつよう)に訊いた。僕は、「ずっといっしょにいたよ。立小便も並んでしたよ」と、答えた。

 何度訊かれても、僕の答えは同じだった。一旦(たん)、心の中で交わした男同士の約束は、そう簡単には破れないのだ。尊い契りなのだ。ぼくは子どもではあったが、そういう道理はわきまえていた。

 巡査は、いかめしい表情で、

「では、最後にもう一度訊くが、本当に二人は一秒たりとも離れなかったんだな」

 と、ぼくを睨んだ。ぼくは平然として、

「そうだよ、立ち小便も並んでしたよ」

 と、もう一度言ってやった。

 巡査は渋顔をつくると、母に向き直り、「迷惑ば、かけ申した」と、去って行った。

 

 ぼく僕の証言が功を奏したのか、進さんはその日の夕方には釈放されて家へ帰ってきた。そして、その足でぼくの家へあいさつにきた。瞼が腫(は)れあがって左の目は潰(つぶ)れていた。紫色になって、痣(あざ)になっていた。唇の端も切れて血がにじみ、瘡蓋(かさぶた)になっていた。

 進さんは上がり框(がまち)にいたぼくに優しく笑いかけると、

「ありがとう、清ちゃん」

 と、言った。ぼくは、

「お帰り」

 と、笑みを返した。二人には、これで十分であった。余分なことばは不要なのであった。

「まあまあ、たいそうなお顔で……」

 母は、そう言うと小走りに奥の間に行き、薬箱を抱えてきた。そして、進さんを畳の上へ引っ張りあげると、傷口を消毒しはじめた。

「そんなことまでしてもらっては……」

 進さんは遠慮したが、母は、

「自分の家にも寄らずに、うちへ来てくださったんですばい、このくらいのことは……清一と二人で心配しちょったんですたい」

 と、半ば強引にガマの膏(あぶら)を塗り、馬油(ばーゆ)をひいた。進さんは時々、顔を歪めたが、母は、

「男でしょもん」と言って頓着(とんちゃく)しなかった。そして、「戦地で戦っている兵隊さんの苦しみに比べたら、なんのこれしきの傷! がまん、がまん」とまで口走っていた。

 その一言で、進さんは、力が抜けたのか急におとなしくなった。

 そんな二人を、僕は微笑しながら見比べていた。

 薬を塗り終えた母は、改めて膝(ひざ)を正すと進さんに向かって、

「本当に、このたびはおめでとうございました。一日も早よう晴れて退院なさって、あったかい家庭を築いてくんしゃい。礼子さんも、それを首を長うして待っちょらすでしょもん」

 と、頭を垂れた。進さんも、

 「ありがとうございます。なるべく早く退院できるよう、努力します」

 と、頭を深々と下げた。

 

     ○

 

「進さんの頭は、いったい、どぎゃんなっちょるとやろかい」

 翌日、母はぼくが目を覚ますと、待ち構えていたかのように言った。寝巻きも着替えていない僕は何のことか分からずに、目をこすっていた。

「進さんがね、今朝早く、凧(たこ)をあげなさったとよ」

「正月だから、よかろうもん」

「そりゃ、凧をあげるのはよかばってんね……」

 母は渋面をつくり、

「凧の絵がねぇ」

 と、ため息をついた。

「どんな絵ね」

 ぼくが訊くと、母は一瞬ためらったが、思い切ったように、

「女の人の裸絵たいね」

 と、言った。

「……」

 ぼくも意表をつかれた。一瞬、耳がおかしくなったのか、と思った。そんなぼくに母は、さらにこう付け加えた。

「それもねぇ、この寒いのに赤褌(ふんどし)姿で凧をあげて、町内を二周も回らしたとよ」

「……」

「それで、近所の人が五人も出て、押さえつけて、そのまま病院へ送り込んだってこったいね」

 ぼくは驚きのあまり、声が出なかった。

 

       ○

 

 島原の冬は、めったに雪が降らない。ただ、寒い風が吹きぬける。暖房とて、火鉢(ひばち)かコタツぐらいのものだ。

 ぼくは、マレー半島に赴いた父の無事を祈ったり、精神病院で寂しく暮らしているだろう進お兄さんの健康を案じたりしながら、友達と独楽(こま)を回したり、双六(すごろく)をしたりして時を過ごした。

 たまには伊藤薬局の店先を覗いては、礼子お姉さんの顔を確認した。明るい笑顔を目にすると、ぼくの気持ちも落ち着いた。しかし、礼子お姉さんの姿が見えないと、悲嘆にくれて寝込んでいるのでは……と、ぼくの小さな胸は痛んだ。

 谷口巡査の死も心にひっかかっていた。母のことばによると、頸(くび)の骨が折れていたということであった。でも、そのほかには外傷もないので、心臓麻痺が原因だろうということで決着がついたらしかった。谷口巡査は、普段から心臓の薬を常用していたという。

「あんなごつい体格の持ち主なのにねぇ。人間って、外観では分からんもんたい」

 母は夕飯の席で、白い割烹着を脱ぎながら、ぼくに語りかけた。

「ほんなこち」

「嫉妬のあまり、心臓に異変をきたしたんじゃろうね。血の気の多い興奮気味の人は、昔から、よくやるたいね」

「ばってん、頸の骨が折れるのと心臓麻痺は関係なかじゃろもん」

「蓮池の側(そば)の土手道ば歩いていて心臓がおかしくなり、蓮池に転げおちなさったとやろ。道と蓮池とは六尺以上も高低差があるけんね。おそらく土手の斜面に頭から転げ落ちて、その衝撃で頸の骨が折れたって……そんな記事が島原新聞に……」

「ふーん、そうね」

 ぼくは、小さくうなずいた。そして内心では、「これで、進お兄さんも枕を高くして眠れるたい」と、喜んでいた。 僕の気がかりは、こうして吹き飛んでしまった。地元の新聞に、母の言ったとおりのことが載っていたのなら、警察の発表も、そうだったのだ。

 ぼくは飛び上がりたい思いを抑えて、餅(もち)の入った芋粥(いもがゆ)をすすった。いつもは芋粥だけだが、今夜の椀(わん)には餅が入っているだけ豪華だった。おかずは沢庵(たくあん)と高菜漬だ。これは変わりばえしなかった。でも愚痴はいえない。すぐ母は、「戦地のお父さんは、どんな思いで戦っていらっしゃるか、知っちょっと!」と睨むからだ。そうでないときは、寂しそうな目で、ぼくを見た。何も言わずに――。

 ぼくは、この憂いを含んだ寂しい目に弱いのだった。だから、ぼくは食べ物に関しては何も文句は言わないことにしていた。

 ――僕の家だけではないんだ。どこの家でも代用食なんだ。

 そう思うと我慢できた。芋は、父の実家も母の実家も百姓だから手に入る。母の実家からは、祖母がたまにだが、米や麦を運んできてくれた。もちろん、季節ごとの野菜も。町内の商店街の人々に比べれば、まだ恵まれていたのだ。だが、贅沢(ぜいたく)はいえなかった。ぼくは、何せ桜井家の長男であったし、父が出征するとき父と約束した、「万が一のときは、母さんを助けて、桜井家を守っていく」という責任を全うしなければならない立場であったから――。

 

       ○

 

 三学期が始まって、学校に通うようになった。学校へ行っても非難訓練ばかりで、あまり授業はなかった。

 昭和十九年十月十日、那覇市が米英の連合軍による大空襲を受け、風雲急をつげる展開になったとき、学校の先生は、

「日本は、一度も戦争に負けた事がない。なぜなら、神国だからだ。いまにきっと神風が吹いて、鬼畜米英に大打撃を与えるだろう」

 と、意気ごんでいた。

 そして、三月一日には硫黄島の日本軍は全滅し、三月二十六日には沖縄が占領された。

 また、三月には、東京も大空襲を受けた。九日、十日と続き、東京の中心地は、ほとんど焼け野原となった。百万人以上の人が焼け出され、八万人から十万人の焼死者が出たという。

 そんなことを、母はぼくに教えてくれた。近所の人や礼子お姉さんから仕入れた情報らしかった。

「お父さんは、大丈夫やろかいねぇ」

 母の心配は、父のことであった。島原は幸いにも空襲らしい空襲はなかったが、母の心は常に戦地の父の許(もと)へ飛んでいって、父の苦しみ、辛さを共有していた。沖縄や東京がこれだけ被害を受けたのだから、マレー半島の前線は壊滅状態であろう、と推測していたのだ。

 母は、陰膳を供えるたびに父の無事を祈っていたが、近頃は祈る時間も以前より長くなった。内地の大きな都市が次々と空襲を受けだしてからは、居ても立ってもいられなかったのだろう。

 そんな母を、ぼくはただ見守るより手段(てだて)はなかった。こんなとき、ぼくは自分の非力さをひしひしと感じて、悔し涙を流した。

 

      ○

 

 四月になると、桜の花が島原の地にも咲いた。お城の周囲や霊丘公園の桜は見事であった。

 母は、天気のよい上旬の日曜日に、僕と純子を連れて、弁天町の奥にある霊丘公園へ花見に出かけた。

 母と並んで歩くのは久しぶりであった。昨年の入学式のとき以来である。近くの第二小学校の校庭にも桜がほころんでいて、その下を通ると桜の花びらが音もなく降りかかってきたのを覚えている。

 ぼくの心は明るかった。母と並んで歩ける幸せに、ぼくの胸は弾んでいた。母は引っ詰め髪に、地味な渋紺の和服を身につけ、対のモンペを穿(は)いていた。右手に重箱を持ち、左手は純子の右手を握っていた。ぼくは、その純子の左手を握り、三人並んで歩いた。

 母は五尺ちょっとしか背丈はなかったが、並んで歩くと、一年生のぼくには圧倒されるように大きかった。ぼくは、たのもしく思った。

 中堀町のぼくの家からは三十分ぐらいの距離であった。これは、純子の足に合わせての速度だが、急ぐ必要もなかった。

 母は、重箱に白米の握り飯を詰めていた。三人は桜の咲いている、やや小高い場所に腰を下ろして舌鼓を打った。

 母は桜の花を目を細めて眺めていたが、

「戦地のお父さんにも、見せてあげたかね」

 と、小さくつぶやいた。ぼくが、「うん」とうなずいていて母を見ると、心なしかその瞳は潤んでいた。

 純子は、純子用の小さなおにぎりを手にして、これまた小さな手で口に運んでいる。ぼくは、「ああ、ここに父さんがいてくれたら、どんなに楽しいだろう」と、残念に思った。それは、ぼくだけの勝手な願いではなく、半分以上は母のための願いであった。昨年、やはりここにきたときは、家族四人がそろっていて、母の表情も生き生きしていた。顔からは笑みがこぼれ、声も弾んでいた。口数は少ないが朗らかな母であった。

――父さんがいないということは、こんなにも母さんの心を暗くさせるのか!

 ぼくは、風にそよいで舞い散る桜花を目にしながら、母の悲しみを思いやっていた。

――きっと、母さんも昨年の花見のことを思い出しているに違いない。そして、便りのない父さんの身を案じているのだろう。

 ぼくは、胸が張り裂けそうに切なく息苦しかった。それでも明るく、

「母さん、どぎゃんしたと? 食欲がなかとね」

 と、声をかけていた。母はぼくを見て、

「ああ……そうじゃなかとよ。あんまり桜が綺麗(きれい)なもんじゃけん、みとれとったったい」

 と言って、笑顔を浮かべた。照れたような、虚ろな、力のない笑みだった。

 

 父の戦死の報が届いたのは、それから数日後だった。白木の箱には、父の名まえだけが書かれた紙片が無造作に入れられていた。

 母は、蒼白な顔で、ただじっと、その紙片に見入ったままであった。まばたき一つ、しなかった。ぼくは声をかけることさえできなかった。怖かったのだ。ぼくは、そんな母と、白木の箱と、父の名まえが記された紙片とを交互に眺めては、小さな胸を締めつけられる悲しみに耐えていた。だから、母の受けた衝撃も理解できるのだった。

 その夜、母は梁(はり)に帯を結びつけて頸をくくった。遺書はなかった。

 ぼくと純子は、父の実家と母の実家に、それぞれ引き取られていった……。

 

      ○

 

 ……父は、人が好くて金儲(もう)けは下手であった。しかし、人として優しく、精いっぱい生きたといえる。ぼくは五十年余り、そう信じてきた。そして、今年、還暦を迎えた。父の年齢を優に二十八歳も超えて、東京にある商事会社を退職した。

子どもは、男の子と女の子が一人ずつである。それぞれ所帯を持って東京近郊にいる。ぼくは三歳年下の妻と二人で、下町の墨田区の片隅で、つつましく暮らしている。

 

 母は父の後を追って短い人生を終えたが、それはそれで幸せだったに違いない、と信じることにしている。なぜなら、後追い自殺をするほど、母は父を愛していたのだから――。子どもの純子やぼくよりも、何倍も深く。

 ――戦争さえなかったら!

 ぼくは、その後の五十数年の人生の中で何度そう思ったかしれない。そして、そのつど涙を流した。いつも心の中では、母が恋しくて、父が慕わしかった。

母の写真は、たった三枚しかない。いずれも和服姿である。生まれて一年経つか立たないぼくを膝(ひざ)の上に抱いている写真と、妹の純子の手を引いている写真、そしてもう一枚は、父が出征する直前に家族四人が正装して映っている写真である。いずれも島原の「たつみ写真館」で撮ってもらったものである。共にセピア色に変色していて、長い時をすごしてきたという印象を抱かせる。

 

 妹の純子は、今は横浜の住宅街に住んでいる。夫は交通事故で昨年亡くなったが、ひとり娘に婿をとり、孫三人と、一家六人家族だ。娘も婿も小学校の先生をしている。

 たまに会うこともあるが、たいていは電話で用件は済む。子ども時代を離れて過ごしたので、兄妹(きょうだい)という意識は薄い。これも戦争のせいである。

 

       ○

 

 定年退職したぼくは、忙しい仕事から解放されて、少年時代を懐かしむようになった。すると、そこには決まって進さんと礼子お姉さんの面影が登場してくる。

――進さんは、元気でおられるのだろうか? ひとりっ子だったから大事にされて、森岳堂の跡を立派に継がれたことだろう。

 昭和二十年八月十五日の終戦の日のことは、よく覚えているが、あまり触れたくはない。よい思い出はないからだ。

しかし、それから十日ほど後、進さんが精神病院から晴れ晴れとした表情で退院されたことは、噂で聞いた。幸いなことに、進さんはその後、奇行もなく、礼子さんと幸せに過ごされたようだ。

 ぼくは父の実家に引き取られて、滅多に会う機会もなくなったが、お二人のことは気にかけていた。お子さんも三人生まれたということだった。

 ……僕は退職してから一ヶ月ほどした平成十年の春、思い切って島原の森岳堂に電話を入れてみた。案内で訊くと、電話番号はすぐに分かった。

 久しぶりに胸の高まりを覚えた。進さんは、僕を覚えていてくれた。礼子さんは十年も前に亡くなっていた。そして国光屋旅館も解体されてしまったということだった。

 ぼくは、長い間気になっていた谷口巡査のこと、あの元旦の朝、トラブルがあったのかどうか、訊いてみたかった。そして、進さんの狂気は演技だったのかということも質問したかった。しかし、口に出すことはできなかった。

 

2001--2002 日本文藝館編輯室